餓鬼道 「赤木さん。」 呼んでみる。 「赤木さん?」 返事は無い。 「・・・・・・赤木さん。」 当然だ。 その名を連呼したのは返答が目的では無いので、ひろは構わず「赤木さん」と続けて名を呟く。 そのモノが赤木という人間だということを確認する為だけに呟いている。 一通り、全身を舐める様に見まわして、最後に、針の沈められた痕の残る左腕を見た。その内肘には一つ、直径3mmほどの赤黒い点が皮膚に窪みを作っている。ひろはしばらくその傷痕を凝視した後、既に強張り、動きの鈍くなった関節に閉口しながらどうにか左手を取る。その甲に、皇女に対し最敬礼を示すかのような恭しいキスを一つ落とした。相変わらず反応は無い。そしてその手は妙に重く、ゴムのように硬く、不自然に黄変し、冷えていた。 赤木の手をそっと戻し、再び全身を丹念に執念深く眺めていると、横たわり閉じられた目にふと視線が釘付けになってしまった。そして引き込まれる様にあの眼光が懐かしくなった。出会う者全てを魅了し、畏怖させ、虜にしてきた眼だ。それは人間の人格を映す最も優れた鏡と言っていいだろう。いてもたってもいられなくなって、その瞼を無理矢理にでもこじ開けようとしたが、たかが瞼だというのに腕と同じように重く、硬い。どうにかこじあけたが、そこには少し濁りの出始めた角膜に覆われた眼球が一つ、あるばかり。 |
これは死体だ、赤木さんは死んでいる、これは死体だ、赤木さんは死んでいる、 これは死体だ、赤木さんは死んでいる、これは死体だ、赤木さんは死んでいる、 これは死体だ、赤木さんは死んでいる、これは死体だ、赤木さんは死んでいる、 これは死体だ、赤木さんは死んでいる、これは死体だ、赤木さんは死んでいる、 |
同じフレーズが思考を支配してひろの中で何度も何度もループする。 思わず開けた瞼に噛みついた。簡単に食い千切れるだろう、と思っていたのに、皮膚は驚くほどの抵抗を見せた。白髪のかかる額に手を添え、顎に渾身の力を籠め、猛獣が食事の際、そうするように全体重を掛け首を捻って引き千切った。ブッ、ブツッと鈍い音を立てた後、薄い皮膚はようやくひろの口内に収まった。その肉片を舌にきちんとのせて吸う。血の味はあまりしない。表層の血液はみな重力に従って背面に流れて行ってしまったのだろう。次に舌で撫でまわすと、付着していたまつ毛が口腔内を優しくくすぐった。じらされてるみたいだ。赤木さんに。赤木さんに、赤木さんに、赤木さんに!ひろはそのまつ毛をしばし舌で可愛がってやると、ゆっくりと咀嚼を開始した。しかしそれはひろの歯に相当の歯応えを伝えてきたが味蕾を刺激し震わせるほどのものではなかったので思わず項垂れ、気を取り直す為に頭を振り、肉片を飲み下してからスっと立ち上がると赤木の周りをぐる、ぐる、ぐるぐる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐると右に左に21周ほどしたあと元の位置に戻り、「あ、違う」と小さく声を漏らして再び座すと、少し乱れてしまった赤木の頭髪を丁寧に直す。 どうすればいい? どうすればうまく赤木さんを大事にしてあげられるのだろう。 瞼の千切られた目は赤黒い真皮を晒してぬらりとした光を放っていた。片目だけ半端に眼球が覗き、それはまるでウィンクしているように見えて、ドキ、ドキ、ドキドキ、した。 ひろはまたしばらく逡巡の末、赤木に馬乗りになると派手なスーツをはだけさせた。ジャケット、それから、シャツ、幸いその下には何も無い。あるのは血色と艶を失って黄変した皮膚だけだ。そうして自分の腰元から小刀を取り出してそっと赤木の胸元に押し当てた。この小刀は理由も無く原田から半ば強引に渡されたものだが、こんなところで役に立つとは。純粋な驚きがあった。 あのドぐされヤクザも極々稀にそれなりのことをする。 思いながら、握る手に力を込めた。それは僅かな抵抗を感触として伝えてきたが、間をおかずスっと中に侵入していった。サク、という感じではない。ブツ、という手応えでも無い。ただスっと姿を消す様に肉体の深くへと分け入った。瞼と同じく、血の噴出は無かった。刃に少し赤い汁が付着するだけだ。そのまま手前に引くと、流石に今度は強い抵抗があり容易には進めない。骨に当たってうまく滑らないのだ。そもそも、この刀自体がこういった所作に向いていない。ひろは、こんな時のためにメスを用意しておくべきだったと酷く後悔した、そして、原田のクズ、と口に出して毒づいた。 それでも無理矢理刀を引いていくと、ガタガタの赤い線が赤木の中心に走った。その縦の亀裂に対し今度は横へと刀を滑らせる。だがどうにもつるつる滑ってうまくいかない。脂が小刀の波紋を覆い始める前に早く済まさねばならない、焦れば焦るほど手元がおぼつかなかった。十文字に切り付けたそこを足がかりに、今度は肉を露出させる必要があるのだ。骨から肉を剥がし取る為に刀を思い切り寝かせ滑らせる。少し黄味がかった脂肪に、白っぽい神経、組織を包む薄膜、妙に赤黒く染まった肉(ほとんどチョコレート色だ)、顔をできるだけ近づけて慎重に見極めながら丁寧に仕事を進めた。“赤木さん”に対して粗雑な真似は許されない。“赤木さん”はひろにとって正しく神域なのだ。神にも等しい存在に、ひろは人生でこれまでにないほど真摯な瞳で向き合っていた。額に浮いた汗の玉を拭いもせずに作業に没頭する、その刀が進むにつれて、例えようの無い生臭さがひろと赤木を包み込むように立ち上った。 その広がりはまるで羊膜みたいだと思った。羊膜・・・・・・・羊膜?もしかして。この中で、このまま赤木さんと溶け合ってドロドロの肉塊になったあと、俺たちは再び細胞分裂して生まれ変われるんじゃないだろうか?誰の腹からでもいい、俺は赤木さんと細胞を共有したまま生まれたい。赤木さんの意識の奥底の中でまどろむような存在でもいいんだ。その思考の渦の中で俺はバラバラになって散っていく。赤木さんの体中に散っていく。あぁ、赤木さん、赤木さん、好きなんです。肋骨に一番近い肉片を一口に収まる大きさに切り取って流れのまま口に放り込んだ。死後硬直の始まって固くぬめる肉に、歯ぐきを痛めながらも無理やり顎に力を込めて断裂させた。ミシミシいいながら肉は組織を崩壊させ柔らかくなっていく。少し苦い。赤木さんの心臓を停止へとおいやった薬品のせいかもしれないし元々こういう味わいなのかもしれない。ひろはこの仮説のどちらが正しいのかそれとも他に理由があるのか確かめる術を持たない。生臭さが遅れて鼻孔を駆け抜けた頃には、くにっとした歯応えがひどく口内を愉しませた。味の無いトロみたいだ。でも調味料はいらない。俺はあるがままの赤木さんを愛したい。 ぽとり。 とうとう額の汗が大粒の玉になって赤木の肉襞に落ちた。汗は、裂けた皮膚に招きいれられるように、いやむしろ能動的に肉に残された血を吸いこんで一つになると、音も無く姿を消す。 しゃにむに赤木の中へと手を突っ込んだ。目についた肉を裂いては口に入れる。 赤木さん、俺嬉しいです。 赤木さんと一つになれて、俺、たまらないです。 あとからあとから涙が溢れてきた。しゃくりが止まらず、何度も肉を口からこぼしたりした。ひろは芯から震えた。異常な興奮に晒されながら、それでも不思議と勃起はしなかった。ただ夢中で赤木を頬張った。少し苦い、生ぬるく生臭い、生で食べるには固すぎる、そんなことは問題にならない。重要なのは今まさに赤木さんが俺とひとつになっている、というこの事実、この充足感、この恍惚感、分かるか?分からないだろう。 顔中を赤い汁で染めてひろは赤木を見る。蕩ける様な表情のまま、赤木の唇に自らの唇を重ねた。極上のフレンチ・キス。 赤木の唇はすっかり乾き切り、深い溝を作っていた。 これは死体だ。赤木さんは死んだんだ。 もう心臓が止まって8時間以上経っただろう。 死後硬直がかなり進んでいる。 その証拠に、胸を開いたというのになかなか凝血しない。 血の色はドス黒さを増してチョコレート色になっている。 ああでも臓器の色はまだ艶がある。ここだけは心臓が止まってもまだ生きているんじゃないか? 脚を持ちあげてみる。ふくらはぎの側にかなり強い死斑が出ている。 背中は相当なものだろう。 確認しようとして背中に手を入れた。 まだほんの少し、温かかった。 温かい。 温もりがある。 赤木さん はっとなって思わず顔を見た。 瞼を失った目は既に強い白濁が出ていた。 両眼は落ち窪んでいる。 よくよく眺める。もっとよく見ろ。 不自然なところがあるはずだ。 ・・・ああこれか。 顎髭が少し隆起していた。 触れてみる。ザラついていた。 伸びている・・・! 赤木さん 背中に入れた手には、確かな温もりが伝わってくる。 温かい、赤木さん、あったかいです。 ほら、あったかい! だが。 ・・・・・・・・・・・遺体。 本当に・・・・・・・・・? 「ひろ・・・・おい、ひろ!」 「・・・・・・・っ!」 頬を叩かれてひろはハッとして辺りを見回した。ベッド。俺は今ベッドにいる。ベッドがある、どこかのホテルだ、散乱した服、俺は裸で、目の前の人間も裸だ、お前、誰・・・・・・・・あぁ。 こいつは原田だ。 サングラスがないと、一瞬誰だか分からない。 「最中やのに考えごとかいなぁ?」 原田はむすくれてひろの髪を強く掴んだ。そのまま頭を引き下げ、顎を上げさせると苛立たしげに唇を合わせるが、ひろにその気がないので舌を絡めようと吸おうと何の反応も返してこない。口腔を犯すことは諦めて、ひろの中に既に埋めた自身を蠢かせ乱暴に突き上げたが、その肉には震えすら無い。ダッチワイフだってもう少し愛想があるし、死体だってもう少し愉しませてくれるというのに。 「なんやねん、久しぶりにお前から誘ってきた癖にその態度かい。」 「・・・いいから早く終わって下さい。」 「チッ・・・なんやねん、可愛げないなぁ。」 原田は文句を言いつつも行為を止めようとはしなかったし、ひろは相変わらずただ一人の男のことを考えていた。 ――――赤木さん、僕を独りきりにしないでください。 それぞれの想いはてんでバラバラなまま、それでも原田とひろは溶け合う様に一つになった。 赤木の葬儀翌日、その夜半三時過ぎのことである。 End. [2010.8.26up] ■アビ子さんからのリク: 「泣きながら神域を食べるひろ」で書きました。 [2011.7.1追記] ■まるさんよりイラストを頂きました!ありがとうございます!!!コチラ ![]() |