戻せば尊し |
薄暗く薄ら寒い店内で、カイジは独り唸った。手には、上品な白い包み紙でくるまれたワイン瓶が大切に握られていた。その重厚な佇まいは、醸成されてから今日までに経過した時間、その分だけ実際の重量よりも重いと錯覚させ、両の腕全体に伝わってくる。この品の良い薄い包み紙を剥ぎ取れば、中から赤紫に色付いた液体が誘うように液面を揺らしているのだろう。そのさざめきを、想像するだけで胸が騒いだ。 かつて錬金術師たちは蒸留酒を発見した際、それをアクアヴィタ、生命の水と称したらしいが、カイジにとっては今この目の前にある上等な赤ワインこそが生命の水だ。丁寧に撫でつけながら拙くラベルを読み取る。マグダレナ・トソ。カイジはワインに関する知識は皆無なので聞いたことはなかった。恐らくどんなラベルを読みあげられようが知っているものなど無いだろう。察してか、それとも営業か、若い店員がたずねてもいないのにベラベラと説明を始める。聞けばどうも、ブドウの品種はカヴェルネ・ソーヴィニヨン。色は深みと落ち着きのある透明なルビー、しっかりとしたボディと芳醇なブーケに裏打ちされた丸い渋みに果実の潤沢な酸味が嫌みなく抜けていく、うんぬん。最後の方はあまり聞いていなかった。一条に相応しい上等のワインだということが分かれば充分だったからだ。 ワインの飲み方について簡単なレクチャーを受けた後、じゃあこれを、と頼み化粧箱に入れてもらいすがら、特別な方に贈られるのですね、と初老の店員に問われた。躊躇わず、ああそうだ、と答えると煌びやかなリボンでラッピングまで施してくれた。女相手だと勘違いしたのだろう。だが拒む理由も無い。大切に底から抱えて酒屋を後にした。 既に闇にのまれた街をてくてくと歩く。一条の顔を想像してみる。この包みを渡した時、あいつはどんな風になるだろうかと。最初に驚いて戸惑う。次に頬を紅潮させ涙さえ浮かべるかもしれない。そうしてグラスに注ぐ赤の美しさと広がる香りに、感動のあまり気が遠のく。その時はしっかりと身体を抱きとめてやろう。そうだ、彼が望むなら、何度でもここに足を運んでやる。カイジは周囲の人間に訝しまれるほどの笑顔を浮かべて帰路についた。 「おっせーよカイジ!」 玄関を開けるなり、一条の不機嫌な怒声が飛んできた。スーツ姿にエプロンを巻いてフライパンを振っている。仕事を早引けしてすぐさま調理にとりかかったのだろう。髪も乱雑にくくられていた。 「ああ、ワリぃ」 靴を脱ぎながらカイジは出来るだけ平坦に返した。まだだ。まだ自分が上ずってはならない。一条はブツブツとまたどうせパチンコだろ、たまにはホイルとかラップとか家事のたしになるものを交換してこいよな、と文句を垂れ流しながらも手は淀みなく炒め物を続ける。同時に左のコンロで火にかけていた煮込み料理の味見をした。カイジ、これもうちょっとコショウきかせて、と命じると自分は炒め物に専念した。 「一条、今日はお前の誕生日なんだから、なんかパーティーっぽいもんを出前で頼めば良かったじゃん」 「あのなぁ!誰かさんがパチンカスのお陰様で、ウチにはそんな余裕はねーんだよ!」 ギリギリと青筋を立て目を三角にして一条が返す。文句言いつつもカイジを手放さないし、料理も止めない彼について、きっと俺のこともご飯を用意することも好きなんだろうな、とカイジは思っている。全くさぁ、なんで俺がテメーの誕生日にテメーのメシ作んなきゃならねーんだか。一条のボヤきはカイジの耳には全然入らなかった。 テーブルに並べた食器から暖かい湯気が立ち上り始めた頃には、時刻は21時を回っていた。主に夕刻に家を出て明け方帰ってくる一条としては久しぶりに食べるまともな夕食だ。事務所では優雅にティータイムを楽しむ余裕はあっても、流石にあまり凝ったものは食べられない。記念日に迎える、暖かい食卓。 カイジが買ってきたケーキにロウソクを挿す。こういうのはちゃんとやらないとな、言いながら昨日パチンコで引換したジッポの火を移す。陽気にHappy Birthday to You!を歌うと一条が恥ずかしそうに火を吹き消し、そうしてはにかんだ笑顔を見せた。その眩さにカイジがたまらなくなって抱き締め唇を吸うと、一条は、俺は腹が減ってんだよ!と真っ赤になってカイジを突き飛ばした。 あらかた夕食を食べ終え、ケーキも半ば食べつくした頃だった。 「な、一条・・・あの、さ。プレゼント、が・・・」 TVのクイズ番組に夢中になっていた一条が跳ねる様に振り返った。大きな包みを持ってカイジがもじもじと差し出す。 「あのな、これ、パチンコじゃないからな!ちゃんと、バイトして、その金で、だから・・・な」 ごにょごにょ言い訳を募るカイジを無視して、一条は驚愕の表情を浮かべ半ば夢想状態で受け取った。 「マジで・・・?」 「おう、マジで」 気持ち胸を張るカイジを視界に認めた後、綺麗に装飾されたリボンを手で何度も撫でると、一条は俯いた。ぶるぶると震えている。「どうした?」カイジの問いに、一条はただ落涙で答えた。 開けてみれくれよ、と促されてようやくラッピングに手をかける。木で出来た大仰な化粧箱の蓋を開ければ、果たして白い包み紙で巻かれた瓶が一本、収めされていた。 「おおー、日本酒か?俺、好きなん・・だ・・・」 ラベルを見たところで一条の動きが止まった。随分間をおいたあと、緩慢な動きで薄く白い包み紙を剥ぎ取る。 赤ワイン。 箱の中身は、上等そうな、それも相当に上物であろうと推測できる、赤ワイン、だったのだ。 「・・・・・・・・」 「いやー、随分前から目、つけてたんだ。でもよ、手持ちがねーと店に入れねーし、遠巻きに見てただけだったんだけどさ・・・パチンコで稼いだ金じゃ、お前嫌がるだろ?だから、ちょっと前から、バイトしてたんだぜ」 カイジは喋りながら、洗い立ての新調したワイングラスを2客、リビングテーブルに並べた。一条はオシャレな割に、ワイングラスを持っていないのだった。光にかざし、グラスに曇りが無いか確認しながら言う。 「ワインオープナーもちゃんとあるぞ、オマケで貰ったんだ、俺開けたことねーから一条、やってくれよ。使い方わかんねぇ」 手渡されたオープナーを、一条は取り落としてしまった。小刻みに震えている。 「一条・・・・・?」 流石にここに至って、様子のおかしなことに気付いたカイジがその顔を覗き込む。酷く青ざめていた。 「あ、いや・・・お前が、こんな、高そうな わ、ワイン・・・・・・くれるなんて、思って、も、いなかった から・・・ビックリ、した」 一条は口を噤んでオープナーを拾い上げ樫で出来たコルクに取り付けた。ゴクリ、と一度喉を鳴らす。スクリューが回転しながらめり込んでいく。耳障りな摩擦音がキリキリと響く。やがて小気味良い音を立てて封が解かれるとカイジはその瓶を奪い取って恭しい手つきで傾けた。デキャンタが無いので少し高い位置から細くゆっくりと注ぐ。想像以上の深い煌めきをたたえた透明なルビーが、おろしたてのグラスに満たされていく。いや、その色の深淵なことと言ったら、ガーネットと言った方が正しいかもしれない。影にはどこかアメジストの高貴さも併せ持っている。鑑賞にすら耐え得るこの赤ワインに至極満足し、スワーリングの後、鼻先に近づければ、どの果実ともつかぬ豊穣な香りが鼻孔をくすぐった。まるで南国の果樹園で熟れた果実を齧りながら柔らかい陽光にくるまれているかのような心地よさだ。一条そのもののイメージでもある、暖かく、優しげでありながら、妖艶な要素も兼ね備えている彼そのものの。高価であった為に試飲は出来ずラベル買いだったが、迷わず感じるまま選んで良かったとカイジは安堵した。 「ほら、一条・・・」 促され、眼前に差し出されたグラスを一条はじっと見つめた。その目には光が無く、瞼は半ば閉じられていた。 カイジがステムを持ってグラスを掲げる。一条が数テンポ遅れて同じ動作についてきた。 「おめでとう、一条」 乾杯、という発声と同時にカイジは水を飲むようにぐーっと飲み干した。良いワインが台無しの、それはそれは酷い飲み方だった。 「これは、一条のモンだから、あとはお前が飲めよ」 実際、味が分からなかったのだろう。カイジは冷蔵庫を開けると、ワインの余韻もへったくれも無い様子で缶チューハイを取り出し直飲みを始めた。それでも一条はグラスに口をつけようとしない。おいおい、どうしたんだよ、勿体無いのは分かるけど、まぁ飲めよ、気に入ればまた買ってくれば済む話だろ。カイジが言いながら借りてきたDVDをレコーダーにセットする。 「ぃ・・・・た、だ き・・・ま す、・・・」 か細い声は、しかし決意の叫びだった。ステムではなく、ワインの満たされたカップ部分を掴み更に握り込む。ぐい、と一息に喉に流し込んだ。口中に広がるのが怖かったのだ。 「うぇ・・・げぼ!」 飲み干して吐き戻すまで、時間はそうかからなかった。 「ぉぷ・・げぇぇぇぇぇぇぇ!・・・ガハッ・・・おえァ!」 パスタが僅かに残る皿に余さずぶちまけた。咀嚼されたパスタはリゾットになって出てきた。しかも食べ終えたばかりであまり消化の進んでいない吐瀉物は喉奥に引っ掛かかり、それが更なる嘔吐反射を誘った。その中に、さっき飲んだばかりの上等なワインのルビー色が混じっていた。胃の中で希釈されて、ローズクォーツのような薄紅色になっている。 |
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「おぶっ・・・うえぇ!あが・・・おヴぇえええええ!」 激しく吐き戻す一条に、呆然としていたカイジであったが、手元のリモコンを放り出すと慌てて一条に駆け寄った。肩を抱くと、ガチガチに硬く張っていた。皮膚は冷たい、少し濡れていて、それが脂汗なのだと理解するのに時間がかかった。 「ど・・・どうした、しっかりしろ!」 涙目でカイジが背をさすると、ゆるゆるとえづきは収まった。ちょっと洗面所。一人で大丈夫だから。口元を押さえて居間から消える一条をカイジは追わず、とりあえず出来たてのリゾットを片付けた。 大分時間を置いて出てきた一条は、こめかみを押さえていた。耳鳴りに、頭痛まであると言う。あまりに激しく噴出した為に、吐瀉物が鼻からも噴出し酸が粘膜を酷く焼いて不快極まりないのだった。 風邪でもひいていたのだろうか、と気を揉むカイジに向き直ると、一条は、観念したように神妙な顔つきになってごめん、と言った。 「おい・・・具合、悪かったのか?どうした?」 一条は、その問いに答えるのに、しばらく時間がかかった。長く・・・・どれほどの時間だったろうか、数分か数十分か、随分と沈黙は続き、そうしてぎゅっと目を瞑った後、血色の失せた唇はやっと返答の為に動き始めた。 「あの、さ・・・実は な・・・・・・」 カイジは許されることなら、いや許されないことだとしても、今すぐに刀を持って討ち入りしたい衝動にかられた。 ふざけるな。 ふざけるな、 ふざけるな!! ぶっ殺してやる!!! 許せなかった。許すことなど到底出来ようはずも無かった。 一条がもつれる舌で語ったのは――――帝愛で、下働きをしている頃の話だった。兵藤会長に悪い意味で目を付けられていた一条は、陰湿なイジメに耐え抜かねばならなかった。それも便所でよつんばいになり椅子の格好をさせられる、というような子供染みた内容ばかりだ。耐えられないことも無い、いつか王になる為だ。そう思い飄々と対応していた一条は、だが自尊心を粉々に打ち砕かれる事態に追い込まれる。 ある日のこと。会長は、美肌効果があるからと言ってタライに赤ワインを満たすと、その中に足を浸した。酔狂と気違いの境界線はどこにあるのだろうか。どうせそれを飲めと言うのだろう。覚悟の出来ていた一条は感情の波立ちを完全に抑え込んでその執行を待った。しばらくして予想が現実になると、彼は笑い顔さえ浮かべてそれに口をつけた。ワインをそこいらじゅうにぶちまけてやりたい衝動は妄想の中で消化した。手を叩いて喜ぶ会長は、だがそこでニィ、と不敵に口角を吊り上げた。 飲んだか、ならこっちへ来なさい。手招かれて案内された先には数人の男達と、上等そうなキングサイズのベッドが一床、あるばかり。流石にそっち |
[2011.4.9up] ■あんさんからのリク : 一条の誕生日にカイジがバイトしたお金で赤ワイン買ってきたから二人で飲むんだけど一条が兵藤会長の足ワインのトラウマでゲロっちゃってウワー!ってなるおはなし日本語でおk! 挿絵はもちろん、リク主様であるあんさんにお願い致しました!! 素晴らしいイラストをありがとうございます、マジ感謝感激>< 本当はもっと大きな画像でうpしたかったのですが、どうもビルダーの調子が悪いようで? この大きさが限界です。後ほど手直し致します。 作中のマグダレナ・トソは実在するワインです。 TOSOシリーズはどれもお値段不相応の美味しさなのでオススメですよ! ![]() |