■第四章


万能薬


 ルフィ海賊団は、もう一つの“夢”を見付けた。
 『サンジの病気を治す方法を見つける』
 という夢だ。

 本当に、夢かもしれない。叶わぬ望みなのかもしれない。
 だが、彼らはそう思わなかった。
 それは、死ぬことよりも激しい絶望のなんたるかを、知っているからに他ならない。


 ルフィの指揮により、ナミにはサンジの体に負担の掛からない航路の開拓、及び島の発見がオーダーされた。ロビン、ウソップは情報収集及びサンジの心のケアを主とし、チョッパーは勿論サンジの治療に全力を注ぐこと。
「以上だ。全員、配置につけ!」
 ルフィの号令に、ゾロはハッとしたように顔を上げた。
「キャプテン、オレは?」
「ゾロ。お前は、何をなすべきか自分で考えろ」
「あぁ?どういうことだ?」
 ゾロの口調は明らかに苛ついていた。キッチンの板壁に背を預けて、腕を組む姿は、三本刀の名に相応しい迫力があるが、どこか惨めに映った。
「お前の、やりたいようにやるといいってことだ。それが、きっと正しい」
 ゾロは、目を見開いて黙った。
「ただ、約束しろ」

 ルフィの眼差しは何処までも真っ直ぐで、ゾロの心すら突き抜けるように力強いものだった。

「サンジは、仲間だ。かけがえの無い、仲間だ。

 全力で、守れ。」


 全員が捌けたキッチンには、船長と航海士の姿があった。ルフィは口をへの字に曲げると、じっとキッチンのドアをみつめている。いつもならそろそろサンジがその扉を開けて、食事の用意を始める頃だ。だが、その姿はもう久しく見られていない。いくら穴の開くほど見たって、ドアノブが傾いて金髪が覗くことは無いのに、それでも見ずにはいられなかった。

「ルフィ、あんた知ってたの?」

 唐突に、ナミは言った。内容は言うまでもない、ゾロとサンジのことだ。
「ああ、俺は船長だからな」
 至極あっけらかんとルフィは言った。ナミは呆れ顔になると、「食えない奴」と呟いた。
「アイツ、あんたの言ったことなんてまるで理解できちゃいないわよ。自分が、サンジくんをどう位置づけていいかも分かってないのよ。あんな馬鹿、放っといたら、どうなるか・・・」
「いいんだ。俺がアイツを選んだんだから、大丈夫なんだ」
「ふうん・・・。ホント、前からサンジくんには甘いわよね」
 ナミが悪戯っぽく言うと、ルフィは照れくさそうに頭を掻いた。
「俺と、サンジってさ。すごく、似てると思うんだ。俺もアイツも、大切な人の体を分けてもらって、それで命があるんだぜ?だから、サンジには、諦めてほしくないんだ」
 ナミは、寂しそうに目を伏せると、そうね、と微かに頷いた。
 その途端に、サンジの金切り声が船中に響いた。ナミは耳を塞ぎたくなるのをぐっと堪えると、唇を噛み締めて航路を決めに女部屋へ行くと短く告げた。
「次の島は、医療薬が集まっていることで有名なの。といっても、民間療法の域を出ない物が殆どだって言うけど・・・」
「見つかるといいな」

 男部屋からまだサンジの叫ぶ声が聞こえる。暴れるのを押さえつけるのは簡単だが、空を掻き毟ることに必死になっているサンジの顔を見るのは辛かった。

 今日はやけに船体が揺れてギシギシと煩い。この揺れが、サンジの何かを刺激しているのだろうか。
 波の跳ねる音、風のうなり声、葉の擦れる音、海鳥の遠く透き通る鳴き声、揺れに悲鳴を上げるメリー号。
 いつもは心地良いはずの音色は、どれもルフィの心を固くさせた。
 だから、今は、拳が震えるのを押さえつけて男部屋に向かうことしか出来ない。






・思案


 一人宙に浮いたようにゾロは落ち着かなかった。
 他のクルーがそれぞれの配置に右往左往している中、ゾロだけが手持ち無沙汰だった。
 好きなことをやればいい・・・ルフィはそう言った。
 苦しげに眉を寄せるゾロに、誰も何も言わなかった。非難も、哀れみも無い。
 それは、船長からの命令だった。

『ゾロを甘やかすな。そして、サンジのことだけを考えさせてやれる空間を作ってやれ。』

 皆、それが何を意味するのか分かっていた。分かっていたから、黙って頷いただけだった。
 ゾロは悩みぬいていた。そして、足は甲板に縫い付けられたようにいつも動かなかった。


「島だ!島が見えたぞ!!」
 本来の主を失って明るさを欠いたキッチンに、ウソップの上ずった声が響いた。
 とうとう、チョッパーが焦がれてやまない島が見えてきたのだ。たかだか数日の間に確実に症状が進行していくサンジの容態を悪化させない為にも、新種の有効な免疫活性剤や薬剤の調達が不可欠だった。それ以上に、クルー達にはその島の存在自体が救いに思え、張り詰めていた空気が少し緩んだように感じた。
 にわかに喧しくなった甲板に、男部屋でゾロと二人きりだったサンジはパッと目を開けた。
「よお。島が見えてきたらしいぜ」
「そうか」
 ゾロが腕立てをしながらそう言うと、サンジは素っ気無い返事を返した。
「逃げようだなんて、考えるなよ?」
 ゾロが本気半分に「すぐに連れ戻すけどな」と付け加えると、「ば〜か、今更逃げやしねえよ」と悪態ついた。
 ふと、それで痩せ衰えつつある自分の手のひらを見た。
 今でも、あの包丁を握れるだろうか。
 鉄鍋を振るうだけの腕力は、残されているだろうか。
 レシピを全て書き表せるだけの記憶力は、保たれているのだろうか。
 明らかに、他のクルー達とは時間の流れ方が変化しているだろうことにサンジは気付いていた。それは、畏怖と失望を生む流れに似ている。
 サンジは、「トレーニングがしたいなら、外に出るか、もうちょっと静かにやってくれ」とゾロに言うと、息を殺すために毛布を頭まで被る。
 体温調節もままならなくなった体を押さえつけるように、ただ深い眠りに落ちることだけを願って。


 咽から手が出るほどに期待に溢れたその島は、期待以上の物をクルー達に与えてくれた。
 度が過ぎる程の健康好きがひしめき合うこの街では、民間療法レベルから最先端医療まで、軽い体調の変化から難病と、ありとあらゆるジャンルの疾病の研究がされていた。より追求された施設の建設、常に最先端を行く研究は緊密なネットワークの元、その成果が伝わり、それがライバルに火を付けてますますの発展へと繋がるという理想的な循環を繰り返す。それは、街それ自体が生きた医学書と言って良いほどだった。
 チョッパーは思わずうれし泣きするほど喜ぶと、勇んで街を駆けずり回り、それにナミ、ロビン、ウソップの三人が脇を固める形を取り、サンジの難病の解明と治療に全力を注ぐ構えを取っていた。

「この島に暫く滞在することにしよう」

 それはルフィからの提案だった。オールブルーを求めて先を急ぎ、揺れて不安定な船の上で、他の海賊たちの襲撃や嵐に神経を張り詰めながら過ごすより、安定した医薬品の供給が期待できるこの島でサンジを救うほうが、何倍もいいと判断してのことだった。

 誰よりも冒険好きの船長が、ひとところに止まろうなどと口走ったのはこれが初めてだった。
 あの船長をしてそう言わしめたことに、サンジは酷い罪悪感に襲われた。ナミに「アイツなりの愛情表現なのよ」と耳打ちされてウィンクを貰ったときには笑顔を見せたが、口数は減っていった。

 そして、街外れの一軒家を失敬して、麦わら海賊団の新たな生活が始まった。
 一日船番が常に二人、サンジにも必ず二人が付き、昼は情報収集に駆けずり回り、時にサンジを連れて医者のはしごをし、夜はサンジの苦しみが少しでも和らぐことを祈って日々を過ごした。

 毎日起こる頭痛。眩暈、嘔吐、運動神経の麻痺。
 度々起こる難聴、記憶の断裂。
 突発的に襲う視野狭窄、意識の混濁。
 そして、サンジに死を覚悟させた、味覚障害。

 それら一つ一つと、戦っていかねばならない。
 目の前の敵をただぶっ飛ばすことこそが「戦い」だったルフィにとって、この静かで苛烈な戦いは胸を抉られる様な思いだった。そして、人の脆さと、戦うことの真の意味を垣間見た様な気がしていた。






・閾値


 一週間後。よく晴れた、昼下がり。
 サンジが、船に戻りたいと言い出した。

「えっ・・・サンジくん、どうしたの?」
 困惑を露に慌てるナミに、サンジは優しく笑いかけた。
「この家・・・勝手に拝借してるから、ガスが通っていないでしょう?」
「そうだけど。・・・えっ、それって・・・もしかして?」
「ええ。それで・・・料理が、したくなったんです」
 そして、ナミは、サンジのこの一言に思わず涙ぐんでしまった。

「ナミさんが焼いてくれたこのスコーン・・・すごく甘くて、美味しかったですよ」


 久しぶりのキッチンは、たった二週間の不在だったにも関わらず酷く懐かしいと感じた。
 よく見ると、フライパンにはちゃんと油が塗って手入れをしてあったし、シンクには水が一滴も残されず綺麗に使われていた。皆さりげなく自分の仕事を見て、見真似で工夫していてくれたのらしい。サンジは、こみ上げるものを押さえるのにしばらく時間がかかってしまった。

 震える手で、包丁を、持つ。
 この瞬間を待っていたと言うように、体中に電気が走った。

 大丈夫だ。俺はまだ、生きられる。
 くそじじい、俺は、見つけられるよな。
 アンタが、焦がれた海を。

 気付けば、静かに、涙が頬を伝っていた。
 それは、料理人・サンジが、船に戻った瞬間だった。


 その日を境に、徐々にだがサンジの容態は快方へと向かっていった。味覚を取り戻したことによる精神的な高揚が、彼に気力を取り戻させたのだろうか。相変わらず頭痛や手足の痺れに悩まされてはいたが、以前に比べれば遥かに柔らかな笑顔を見せるようになった。
 それは、とても透明な柔らかさだった。

 船員達の間には、当然、やっぱり治る病気だったんだ!という機運が高まった。
「な〜?サンジ!言っただろ?お前は生きられるんだって!」
 嬉しそうに、船長は笑って言った。サンジがたまに作る料理を口にしては、皆笑顔を見せ、ぎこちなくギチギチに張り詰めていた空間が、緩み、暖まり始めていた。
 その空間は、船医にはどうにも馴染めないようで、いつもどこか寂しげに笑っていた。医者として知識があるだけに、どうしても手放しで喜ぶことが出来ないのだ。
 チョッパーの考えていることは一つだ。
 この不安が、現実にならなければいい。最も恐れている、その事態に。






・錯綜


 あくる日、借家には、ゾロとサンジの二人がちんまりと納まっていた。
 このところサンジの容態は安定し、暴れることも少なくなってきたので必ず二人が付き添うこと、というルールは大分緩やかになっていた。常にベッタリされていては、サンジも参ってしまう。
 船医は薬草の追加の為にナミと出て行ってしまったから、しばらくはこの家に誰かが訪れてくることは無いだろう。
 その状況分析を、冷静に行っていたのはゾロだった。
 ゾロは、この時をずっと待っていた。二人きりで、誰の足音に気取られる必要も無く、冷静にサンジと話し合える機会を。そして、それは今まさにこの瞬間だと思った。

 考えことをしている間ずっと振り続けていたバーベルを床に置くと、その物音に夢現だったサンジはふ、と目を覚ました。
「ああ・・・飽きもせず、ご苦労なこったな」
 サンジは言うと、起き上がって水差しに手を伸ばす。

 痩せた。

 それが、ゾロの第一印象だった。
 水差しを掴む手は、骨と血管がくっきりと浮かんでところどころ鬱血していた。腕や腿はそうでもないが、手の様に肉の薄い部位は特に変化が著しかった。だが、ゾロは、それから目を逸らそうとは絶対にしなかった。見据えたまま、息を一つ吐く。

「今日のは、お前がこの船に乗ったとき、初めて作ったやつだよな」
「っ何、テメエ覚えてたわけ!?意外とマメだな〜」

 サンジはコップを持ったまま大仰に驚いた。実際、何を食わせてもダンマリのゾロから料理の話題が出ること事態がもうミラクルだ。
 嬉しさ半分、気味の悪さ半分でゾロの顔を覗きこむと、眉根に皺を深く刻んでいた。

 何だ、味に文句があるのか?

 生意気な奴だ、言おうとして、それは次の言葉によってかき消されてしまった。

「サンジ・・・話がある」

 ゾロは、板が剥がれかけた床を見つめて言った。そのただならぬ様子に、サンジの咽が、思わず、ゴクリと鳴った。

「俺は、お前がこうやって倒れてから、ずっと考えていたことがある。サンジ。俺たちは、俺たちのしてたことは、一体、何だったんだろうな」
「な、なにって・・・何がだよ」
 ゾロのいきなりなこの問いかけに、サンジの声は明らかに動揺していた。皮肉にも、見開かれた目に生気が戻ったように見えた。
「なんで、俺たちセックスしてたんだろうな。
「そりゃあ・・・溜まるからだろ。それ以外の何でもねえ」
「だろうな。仕方ねぇ。不可抗力だ。じゃあ質問を変える。なんで、俺と寝ようと思った?」
「・・・考えたこともねえよ」

 ルフィは、ガキ過ぎて一夜を過ごそうなんて気にはとてもなれない。ムードをぶち壊されて、出す出さないの話にはならないと思う。まして、悪気は無いにしても口が軽いから、あっと言う間に船員にバレてしまうだろう。それだけは、避けたい。
 ウソップは、兄弟の様に感じているからやっぱり対象には見れない。実際、寝るって段になったら、噴出してしまうだろう。勃つものも勃たない。
 ナミさんは、論外だ。一時の欲望を吐き出すためだけに、身近にいる女性で済まそうという思考がからきし湧かない。もし手なんか出したら、ルフィに殺されるじゃ済まなくなるだろう。それは、ロビンちゃんにも当てはまる。

「・・・ちょうど、良かったからじゃないのか?」
 サンジは、しばし間をおいて答えた。
 ドライなことを口にする割に、表情はやたら強張っていた。虚勢か、ゾロは正しく理解するとまた質問を投げかけた。
「しょうがねえから、ちょうどいい俺とヤる気になった。それは俺も同感だ。だがな、サンジ。お前、その後、変わっていくのに気付いていたか?」
「・・・何だよ、ソレ。俺に、告白してンの?」
 サンジの茶化しを、ゾロは完全に無視した。
「お前が死ぬかもしれないって聞かされたとき、考えた。いやというほど思い知らされた。これが、色恋だとか、愛だとか、言うつもりは毛頭ねえ。男相手にそう思うほど、俺は血迷ってねえ。それを理解した上で聞け。お前、本当に、性欲のためだけに、あんなに苦労して時間作って、格納庫に来てたのか?」
 徐々に頭の芯が熱くなっていくサンジと、あくまでも冷静なゾロの温度差は激しく、空間が軋む音さえ聞こえてきそうだった。
 サンジの沈黙を肯定と取ると、ゾロは言葉を続けた。
「これはアイだのコイだのとは全然違う。でも、俺はお前を見るとヤりたくなる。胸はねえし、スネ毛はすげーし、同じモン付いてるし。ちっとも柔らかくねえし、男臭ぇし。でも、何でだろうな・・・勃つんだよ」
 サンジはただ黙って突っ立っていた。ゾロの顔もまともに見れず、視線を落として震えた。
 対して、ゾロは、畳み掛けるように言葉を続けた。必死だった。今、ここで、言わなければならないと絶対的な予感が追い立てるように口が動いた。
「俺は、お前とする時いつもオトコを相手にしていることを忘れようと思ってた。でもそのうち変わってきた。・・・出すことよりも、お前のことを考えていたような気がする」

 最後のフレーズに、サンジは一層表情を崩した。

 笑える。

 サンジは、思った。こんな滑稽な話があるだろうか。こんなことにならなければ、恐らく避けて通れる道だったはずだ。そうでなくたって無視して通り過ぎることの出来た道だ、目を瞑ってたって慎重に歩けば進むことは出来なく無い。

 有り得ねぇ、有り得ねぇ、有り得ねぇ。
 あの、剣豪が、俺と、痴話話をしたいそうだ。
 俺の、この体が原因で。
 俺のこの体から何かしら腐敗の瘴気が漏れ出て、何から何までを壊しちまったんだ。
 だから、コイツも壊れた。
 男相手に、コクハクしちまうくらいに。

 サンジは再びベットへ腰掛けると、ふ、と一つ息を吐いた。
「それで・・・テメエはどうしたいんだ?」
「俺は後悔したくねえだけだ。ケリを、つけてえ。物事がゴチャゴチャしてんのは、気にくわねえ」
「・・・ケリ?体のいいこと言うなよ、要は俺にアイのコクハクをさせてえんだろ?」
「そうじゃねえよ!お前だって分かってる筈だ。ここまできて逃げるんじゃねえよ、サンジ!」
 “逃げるな”この一言に、サンジは激昂した。
「うるせえ!テメエと寝た理由だって?俺は弱かったからだ、俺が弱かったからなんだよ!そん時にお前がたまたま側にいただけだ。それ以外の何物でもねえ!勘違いすんな!!」
「ルフィだってウソップだって、チョッパーもナミもロビンもいたじゃねえか。言い訳ってんだよ、そーゆうのをよ。男だってことを言い訳にすんじゃねえ!矛盾してるじゃねえか!」
「黙れ!ゾロ!お前に何が分かるってんだ!」
「お前と散々寝たから分かるんだよ!」
「うるせえ!マリモ!クソ下らねえ与太話してえなら他所でしろよ!」

 サンジは吐き捨てると、玄関へと弾かれるように走った。ゾロの制止に、「これ以上干渉するな」の捨てゼリフを残して。あっという間に姿を消すと、残されたゾロの耳には遠く、静かな波音だけが響いた。

「くそったれ・・・勝手にしやがれ!」

 忌々しく呟くと、抜け殻になったベッドに乱暴に腰掛けた。サンジの温もりが少し残っていて、それが余計に腹立たしかった。






・森の中で・・・


 林の中を、走って、走って、走って。
 舗装された道が唐突に途切れても止まらず森に入り、その森の不気味さに気付いてようやく足を止めた頃には、サンジの息は完全に上がっていた。

「っぜ、はっ、はぁ・・・っ・・・」

 こんなに全力で走ったのは一体何時振りだろうか。跳ね上がって煩い心臓を黙らせる為に、船医に内緒でこっそりくすねておいた煙草に手を伸ばした。煙草も実に3日ぶりだ。全てが久しぶりすぎて、サンジは軽い眩暈を覚えた。

 下らねぇ、下らねぇ、下らねぇ。

 いつか繰り返した言葉を、またサンジは反芻し始めた。
 今はそのループを断ち切ってくれる麗しいレディもいないし、淀んだ空気の流れる鬱蒼とした森という環境も手伝って、サンジの思考回路はますます泥沼の様相を呈する。

 あの時、自分は、逃げるなと言われて激昂した。
 それは、“ゾロと向き合うことに背を向けているのです”と自白したことと同意なのだ。

 サンジは単純に戸惑っていた。

 ゾロが、このところ考え込むような、思いつめたような眼で見つめてくるので、どうせまたロクでも無いことを良く無いアタマで考えているのだろうと馬鹿にしていたのだが、まさかこんなことになるとは。
 自分は、クソ剣士と、よりによってあのクソ剣士と痴話喧嘩をしたのだ。そして、その喧嘩の間中、“何も考えさせるな”という思いが先立ったことに驚きを隠せなかった。

 綺麗に巻かれたジョイントの先で燻る火をボンヤリと眺めているうちに、ふと、このやたら湿って不愉快な木々を一掃するために、火をつけてみたいなどと思いはじめた。そうしたら、この胃の焼け付くような苛立ちもサッパリと無くなるような気がしたのだ。だがこの場で放火なんかしたら間違いなく煙に巻かれて自分も死ぬだろうし、大体、そんな行為になんら価値が無い事なんて分かりきっている。我ながら思考の飛躍の凄まじさに、はぁ〜・・・と深い溜息をついていると、遠くで、何か音がした。
 風で葉が擦れ合う音も、生物の生態音もなにも無いシン、と静まり返った妙な空間が支配するこの森で、本来自然であるはずのその音は、あまりに異質だった。

(・・・っ、・・・・・・っ!)

「!」

 人の、声か?

 思い出したが、ゾロと口論の末に飛び出してきてしまったものだから、着替えなんかしている余裕もなく、寝巻きのままだったのだ。

 人にこんな様見られたら恥だ。

 慌てて、見繕いをしてその場を立ち去ろうとした瞬間、サンジの耳に、ハッキリとその何かが耳に飛び込んできた。

(・・・テ・・・、・・・タスケテ・・・っ!)

「な・・・っ!?」

 少女の、悲痛な叫び声のようだった。よくは分からないが、切羽詰った響きが含まれていることは明白だった。
 どこだ、慎重に辺りを見回すが、木々の間に蔦が絡み合って視界が通らず、溶岩が溶け出して出来たらしい岩場は太い根っこが鬱陶しい位に這っていて、思うようには進めない。

 必死に、不自由さの残る耳を傾けて右往左往していると、急に、視界が開けた。
 そこだけ隕石が落ちて抉れたような岩場に、黒髪の少女が怯えて震え、腰が思うように立たないのか、尻餅をついてあとずさっている。
 少女が凝視する方向を見遣れば、山賊らしき男たちが怒声を上げて向かってきていた。
 数は2、3・・・もっといた。5人、6人。まったく、少女一人に大げさなこった。
 サンジはぷっと短くなった煙草を飛ばし捨てると、優雅に、ゆっくりと両者の間に割って入った。
「おいおいおい・・・こんなトコロで追いかけっこか?大人気ねぇ真似すんじゃねえよ、このクソ共」
 途端、空間がゆっくりと殺気を孕み始めた。
 こんな場面に立ち会うのは久しぶりだ。それに、不謹慎だが、手ぶらで帰るのはちょっとキツイと考えていたトコロだ。
 サンジは呑気な事を思いながら、再び、煙草に火を移すと、挑戦的にふ〜・・・っと一つ息を吐いてみせた。






・少女


 チョッパー達が買出しを終えて最初に目にしたものは、庭先で憮然とした表情をしながらトレーニングを行うゾロの姿だった。
「ただいま!ゾロ。なんだ、機嫌が悪そうだなあ、どうかしたの?・・・ん?あれ、サンジは?」
 息を上げて戻ってきた船医は、寝室を覗き、サンジがいないことを不思議がりながらも、早くこの薬を試してみたいんだと右手を高々と挙げて嬉々として笑った。ナミが、なぁに、まるで人体実験みたいな物言いねと冗談めかして言うと、不満げにチョッパーは口を尖らせた。
「アイツならいねえよ・・・飛び出してどっかいっちまった」
 ゾロが重たい口をどうにか動かして事実を簡潔に伝えると、二人はぎょっとしてゾロを注視した。
「な、なんで?飛び出して行ったって、え?」
「まさか・・・アンタ、サンジくんに何か言ったの!?」
 パニックの収まらないチョッパーに代わって、勘のいいナミはゾロの冴えない顔つきから状況を読み取ると、声を荒げていた。その反応を煩そうに、ゾロは「知るか」とだけ答えた。
「知るか、ですって?あんた、サンジくんの体がどうなってるか、分かってるの!?」
「どうって・・・もう治り始めてるじゃねえか。暴れることも無くなったし、味覚だって戻っただろ。アイツだってガキじゃねえんだ、そのうち・・・」
「この馬鹿野郎!!」
 ゾロは、言い終わらないうちに巨大化したチョッパーのひずめで横っ面をぶん殴られていた。吹っ飛ばされこそしなかったが、つ・・・と血が唇を流れた。
「・・・なにすんだ」
 指でその血を拭うと、剣呑とした表情でゾロは船医を見遣った。チョッパーは、その目に臆することなく、ゾロの胸倉を掴みかかって青っ鼻を押し付けた。
「ゾロ!サンジは、元気になったって言ったってまだ病人なんだ!それに、あれは治ってるんじゃない!もう、サンジの体はボロボロなんだ!」
「・・・なんだって?」
「治ってなんかいないんだよ!」
 もう一度、今度は泣き声でチョッパーはそう言った。
 茫然と脱力するゾロからひずめを離すと、チョッパーは体を小さく戻してしょぼんとした。
「ごめん、ゾロ、殴ったりして・・・でも・・・」
「・・・!!どうしたの?あなた、傷だらけじゃない!」
 チョッパーの続くはずだった言葉は、しかしナミの言葉に遮られて行き場を失った。
 二人がナミの方に視線を移すと、そこには見たことの無い、黒髪の少女が髪を振り乱し、服をボロボロにすり切らせ、息を切らせて立ちすくんでいた。

「っねえ、頭が、緑の、お兄ちゃんっ・・・て、あなた、でしょ?金髪の、おにいちゃん、が、殺されちゃう・・・!助けて!!」

 この少女の一言に、三人は思わず顔を見合わせた。


 ゾロとチョッパーは、夕日が赤く染め上げた森を共に疾走していた。木々の隙間から厳しい夕日が差し込むと、地面は白茶けた岩にマダラな赤い模様を描き、まるで血溜が点在しているようだ。空間が汚れている気がする。腐敗した空気が、肺までも汚染しているのだろうか。やたら息が苦しいのは、そのせいだとゾロは思った。

 嫌な予感がした。
 とてつもなく、嫌な予感が。

 少女の話は、こうだ。

“アタシ、追っかけられてて、でも、金髪のお兄ちゃんが、助けてくれたの、それで、東に向かって、走れって・・・でも、お兄ちゃん急に苦しみ出して・・・助けようとしたの、でも、構わず走れって。走って、頭が緑色のお兄ちゃんに助けてもらえって。お兄ちゃん、いっぱい血を流してた。

きっと、あのままじゃ死んじゃう・・・!!”





 →第五章