ロング・グッドバイ
(あっ・・・)
思った時にはもう、両の脚は地を離れてしまっていた。
普段感じることのない全身の浮遊感に、体中の細胞が粟立つように騒いだ。
階下に向かって、背を向けたまま落下していく感触が気味悪く、思わず両の腕を広げ抗おうとしたが、それらは虚しく空を切るばかりだった。
ああ、落ちる
このまま落ちたら俺死ぬ
己の身体に突如として起こった生命の危機に対し、驚くほどの速さで思考を巡らせた後、再びその身体は地に近づきつつあった。
反射で取った受け身はあまりにも中途半端なもので、落下の衝撃を和らげてくれるほどのものではなかった。反動で身体が軽く浮き上がると、すぐさま地面に叩きつけられ、更に回転運動が加わって転げ落ちていく衝撃が全身を廻ると同時に、カイジの意識もぷつりと途切れた。
意識を手放す瞬間、視界の端に何かの人影を捕えた気がしたが、間もなく緞帳が降りカイジは静かに目を閉じた。
*********
目覚めは突然だった。
いや、突然でない目覚めなどありはしないが、看病を続けた者にとってカイジの目覚めは突然だった。それは同時に、両の目を自らの意思で開いたカイジとしても同じことだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
半分持ち上げた瞼の中の眼球を辛そうに右に左に動かす。長らく闇の中にいた瞳孔には、蛍光灯の明かりですら強すぎたようで、眉間にこれでもかというほど皺が寄った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・?」
徐々にハッキリとした輪郭を得ていく景色に、カイジは酷い違和感を覚えた。違和感の種は挙げていけばキリがない。天井が遠い。壁も遠い。付けた覚えの無い形の蛍光灯が付いている。家具が多すぎる。そもそも壁の色が違う。それになんだかシーツの肌触りが良すぎる。それから・・・・・・ それから・・・?
あれ?
俺・・・・・・・
「坊ちゃ・・・、・・・伊・・・・・・・が・・・目を・・た・・・・・・。」
人の声に驚き、そちらへ顔を傾けると、真っ黒いスーツを着た上に柄の悪いサングラスをかけた男たちが数人固まって何やら部屋の隅でゴソゴソ蠢いている。何だあれ、と思うやいなや、全身に激痛が走った。
背中から足先まで、一直線に駆け抜けるような痛みに、成す術無く呻く。痛覚から逃れようと身体を捩ればまた別の個所が痛む。痛みに筋肉が緊張すれば、連鎖反応が起きてまた別の個所が痛んだ。その様子は、容赦無い学生実験で脊髄をいたぶられるモルモットに似ていた。
独りジタジタやっていると、ヌッと自分の上に影が降ってきた。涙目で見上げると、一際人相の悪い、青いサングラスをかけた男が立っていた。影になって表情は伺い知れないが、真一文字に結ばれた口元が緊張を表していた。
「・・・っアンタ・・・誰・・・?なんか、俺、すげぇ身体、いたっ・・・ひっ・・・・・・」
言い終わらないうちに、またぞろ痛みが襲ってきた。慌てて目を瞑って痛みをやりすごす。だから、目の前の男が、ひどく狼狽していることにカイジは気付けなかった。
「カイジさん・・・・カイジさん、俺のこと分かんないわけ?」
「はぁ?・・・っ・・・しらねーって・・・言ってんだろっ・・・!つっ・・・なぁ、すげー・・・痛いんだけど・・・っ・・・・これ、なに・・・ぐっ・・・!」
男はしばし放心したように黙していたが、やがて黒スーツの一人からシリンジを受け取ると、丁寧な手つきでカイジの腕に針を刺し込んだ。一度シリンダーを僅かに戻し、血の逆流を確認してからシリンダーが押し進められる。連動して中に充填された鎮痛剤の透明な液体がするすると血管に流し込まれていき、しばらくすると、ようやくカイジに穏やかな表情が戻った。
「なぁ、カイジ、本当に俺が誰だか分かんないわけ?」
目の前の男は、なおも食い下がった。
カイジは支えを借りて上半身をゆるゆる起こし、ひと心地ついたところで、しかし今度はしっかりとした口調で言った。
「さっきから知らねーって言ってんだろ。アンタ誰?っていうか俺、なんでこんなとこにいてこんな怪我してんだ?」
全身に巻かれた包帯の一部を指先で摘まみながら、言った。
瞬間、部屋に重い沈黙が落ちた。
それも、恐ろしく長く、息苦しいくらいの沈黙だった。
カイジは、何かまずいことでも聞いてしまったのだろうか、といらぬ気を揉んだ。見れば、周囲を取り囲む黒服の集団も、固唾を飲んでこちらを見守っている。
「・・・・・・・俺は和也だよ。兵藤和也。カイジさん、アンタの恋人だよ。」
「・・・・・・・は?」
カイジは思い切り呆けた声を出していた。
和也、と名乗った男は、ニコリともしないで続けた。
「アンタ、階段から派手に落ちたんだよ。それで全身打撲だ。そりゃあ痛いだろうよ。3日も意識が戻らなかった。」
「・・・・・・・それ、本当か?」
「嘘吐いて何になるよ?」
「い、いや・・・恋人って・・・あの、恋人ってやつは、その・・・お互い好きで、えーっと・・・付き合ってるって意味だったと思ったんだけど、違うか?」
「ああ、そういう意味だ。」
「・・・・・・・・・・・・・嘘だろ・・・・・・。」
カイジは愕然とした。それで、目の前の、この和也と名乗った男をまじまじと眺めた。
どう見ても男だ。しかも自分より幾分体格が良い。相当若そうだが、服のセンスがまるで良く無い。縦に黒いストライプの入った青いスーツの下には花柄のシャツ、しかも青いサングラス、軽そうな茶髪、人を小馬鹿にした様なニヤケ顔。周囲には強面の屈強な男たちが6人も囲っている。どう見たってまともな連中じゃなかった。
恋人?何かの冗談だろ、なんでこんなのと。
「嘘じゃないってカイジさん。全然覚えてないのか?今西暦何年だか分かるか?」
カイジが答えると、それは3年前だよ、と言われ絶望的な気分になった。
その後、チグハグなやりとりを何度も何度も繰り返し、カイジはようやく現状を把握した。
どうやら東京に出てきて間もない頃の時点に、記憶が戻ってしまっていること。
上京したはいいものの、危険な仕事をこなしてきたせいで身体の各所にカタギでない傷があること。
和也とは1年前に出会って、ひと月前に同棲を始めたこと。
階段を踏み外し、かなりの距離を落下したらしいこと、それを最初に発見したのが和也だったということ。
昏睡状態で3日経っていること。
どれ一つしっくりとこなかったが、カイジに真偽を確かめる術など無い。ありのまま受け入れるしかないが、一番納得がいかないのは、この和也と言う男と恋人関係にあったということだ。どう思い返しても、男とどうこうなる性質が自分にあるとは思えない。僅かながらあったとしても、なんでわざわざこんな男・・・・・・改めて見つめると、和也は初めて人懐こい柔らかさでニコリと笑った。
「今は気にすんなよ、カイジさん・・・・・・助かって良かったじゃん。」
そう言われ、抱き寄せられた。
突然のことにカイジは和也を突き飛ばしそうになったが、どうにか堪えた。この男がいなければのたれ死んでいたかもしれない、恋人だなんだという要素を除いたとしても、一応は命の恩人ということになるだろう相手を、無碍にするのはどうかという迷いがあった。いやだからといって・・・微動だにせず固まったままでいると、和也は喉奥でくつくつ笑って言った。
「直に慣れるさ。」
********
遠藤勇次は、酷くイラついていた。
悪気無く約束をすっぽかされることはしばしばあるが、今回はあれほど遅刻するなと念を押したにも関わらず数時間経っても来る気配が無いばかりか、携帯にすら出ない。携帯は絶対に電源を切るな、と言い含めてはいるのだが、如何せん寝惚けていると勢い電源を切ってしまうらしく、繋がらないことが頻繁にある。
「チッ・・あのクソニート・・・・・窓口閉まっちまうだろーがっ・・・・・!」
言うだけ虚しいのだが文句が止まらない。
蟻の巣のような住宅街の隘路に場違いなベンツをつけると、遠藤は木造の安アパートの階段を踏み鳴らしながら上がり、201号室の前に立って思い切りドアを叩いた。
「カイジ!おいカイジ!起きろ!!」
やかましく叩くがまるで手応えがない。数分間繰り返したが中からアクションの返ってくる気配は毛ほどもなかった。舌打ちし、ドアをぶち破っちまうかと扉を見たところで、ふと、玄関の佇まいに不自然な空気を感じた。ドア横にずっと放置されていた、骨が折れクソの役にも立たなくなったビニール傘が無くなっている。同じく捨てる捨てると言っていつまでも捨てていなかった雑誌の束が、ヒビの入ったコンクリの床にその跡を残してソックリなくなっている。掃除したのだろう、と普通なら思うところだが、カイジはそんな殊勝なタイプの人間ではない。なんとなく、嫌な予感がしてベランダ側へ回った。見上げると、カイジの部屋のカーテンは開け放たれていた。いや、開いている、のではなく、カーテンそのものが取り去られていた。
あるべき位置にあるべき家具も見られない。
「・・・・・・・・・・・!?」
遠藤の様子に異常を察した部下とドア前に戻り、ざわついていると202号室の住人が何事かと玄関から首だけ出してきた。遠藤の殺気立った人相と周囲を取り囲む男たちに一瞬体をビクつかせすぐ扉を閉めようとしたが、閉じかけの扉に足を強引に押し込むと遠藤は無理矢理玄関を開けさせた。
「アンタ、隣の奴がどうしたか知らないか?」精一杯の笑顔を作って言った。
「あ、と、隣の人は・・・昨日、の夜、引っ越しされた、みたいです、よ・・・・・・随分、荷物運んでましたから・・・・・・・挨拶はされてませんけど・・・・・・。」災難なことに、隣人はスッカリ縮こまり怯え顔で答えた。
よくよく聞けば、カイジ本人の姿は見ておらず、引っ越し業者があっという間に作業を終えて出て行ったと言う。他に家族や友人らしき人間も見当たらず、急な印象を受けたということだった。今にも泣き出しそうな人間からこれ以上の情報は引き出せそうもないと判断すると、遠藤は礼もそこそこにベンツへ戻った。
慌てて不動産業者へ連絡を入れる。
嫌な予感がした。
酷く嫌な予感が。
***********
意識を取り戻してから、カイジはみるみる回復した。体中打ち身で痣と裂傷だらけではあったが、骨には異常が無いのが幸いだった。初めドス黒い色を浮かべていた肌は次第に赤味を差し、群青色へと移り変わり、次第に黄色がかってきた頃には体中を支配していた痛みも引き、カイジは看護室から自室へと案内された。「ここがカイジさんが使ってた部屋。」そう言われても、真新しさにどうにも違和感が拭えない。「なぁ、なんでダンボール積んだままになってんだ?」家具は壁に並べられていたが、何も陳列されておらず少ないダンボールは手つかずのままになっていた。同棲を始めてひと月と聞いていたが、いくらなんでもこれはおかしい。「カイジさんがいつまで経っても片付けないからだろ。」しかしそう返されては、自分は確かにそういう奴だったかなと思い反論の余地も無い。「カイジさんは俺の仕事の手伝いしてくれてたから、忙しくて出来なかっただけじゃね?」思わぬフォローを受けつつ、膝をついて一つ一つダンボールを開ける。中身は、ほとんどが、見覚えの無いものばかりだった。他人の荷物を勝手に開けて見てしまったようなバツの悪さが過り、何度も確認するが間違い無く自分の持ち物だという。だが、その佇まいのよそよそしさに、使おうにも生理的嫌悪が拭えない。
「なに?どうしたの、カイジさん。」
「いや、なんか・・・・・・他人の持ち物みたいで・・・。」
「あぁ・・・?そういうもんか・・・じゃ、全部新しくしちゃえばいーじゃん。今から出かけようぜ。おい!車用意しろ!」
後半は、カイジに、ではなく後方で待機していた黒服の男たちへの命令であった。
「さ、行こうぜカイジさん。」
差し出された手を、カイジはどうしても受け入れることが出来ずあぁ、大丈夫、と消え入りそうな調子で呟きながら一人で立ち上がる。和也の顔は見ることが出来なかった。
カイジはここ数日の療養生活で、この、和也と言う“恋人”の素性を大体把握していた。
金融会社の会長の御曹司だということ。
自身も経営者であること。
今住んでいるこのマンションは、別宅の一つだということ。
いつも周囲を取り囲んでいる黒服の男達は、SP兼世話係だということ。
そして、和也は、まだ高校生であること。(これを知った時、カイジはすぐにでも逃げ出すべきか悩んだ)
聞けば聞くほどヤクザの臭いがした。
どういう事情でこんな人間と知り合って、しかもコイビトなどという関係に陥った挙句に同棲しようだなんて俺は考えたんだろう?失った記憶部分、今の自分の状態からしたら、未来に生きていた己の素行に腹が立って仕方がなかった。
和也が買い物に行く!と宣言した直後、ほとんど拉致の様な勢いで外に引っぱり出され、着いた先では店を丸ごと買い占める勢いで進められた買い物から帰宅した頃には、もう22時をまわっていた。和也はカイジと一緒に寝たいと食い下がったが、丁重に辞退してどうにか独りきりの空間に収まると、長く重い溜息がつい漏れた。
カイジ、伊藤、開司。俺の名前。
左手には親指を除き、指付け根に一度切断され縫合されたらしい傷痕。確かに右指に比べて動きが悪い。
左肩には、『21』という数字の形の火傷があり、その部分だけ皮膚が硬く変質して盛り上がってしまっている。
左頬には頬骨から目元にかけて5センチほどの刃創。赤い皮膚の引き攣りがよく目立つ。
更に左耳にも、傷痕。耳と頭部の境に、千切れてしまったかのような痕がある。
これだけ見たら、なんのことはない、自分も完全にヤクザだ。それも、特攻的な役割の構成員だとしか思えない。そんな度胸が俺にあったか・・・?
和也。
兵藤、和也。俺のコイビト、らしい。
和也、兵藤和也、カズヤ、かずや。
何度も呟いてみる。カズヤ、和也、兵藤和也。かずや。全然しっくりこない。
あれが恋人だって?信じたくない。仕事って、何やらされてたんだ?
思うことはあれど、全てとっぱらった上で和也のことを思い返してみる。だが、もう一度好きになれ、と言われたってかなり難しい、というか不可能だと思った。この少ない日数の間を取って、の話だがどうにも人間的に惹かれる部分が無い。しかしそんな事を言っては、仮にもお付き合いがあったらしい相手を深く傷つけてしまうだろうし、いや、だからといって、そうは言っても・・・何度目かの堂々巡りが過ぎた頃、カイジは疲れから纏まらない思考を沼に放り出して沈むように眠りに入った。
このまま目覚めなければいい、と半ば思っていたかもしれない。
幸か不幸か、それでも朝は来た。朝日の差し込みで自然に目が覚める。薄眼を開けると見慣れない風景。身体を起こすが、ダルさが消えない。むしろ酷くなっているような気がした。昨晩新調したスリッパに足を通す。部屋に一つだけのドアを開けると、ダイニングへ出た。白を基調とした20畳ほどの空間に、贅沢な間隔で家具が置かれている。中でも一際目立つ豪奢なソファに深く腰掛けていた和也が、カイジに気付き向かってくる。カイジは知らず筋肉が強張った。笑おうとするがうまく笑えない。「カイジさん」嬉しそうに呼ぶ声。そのまま抱き締められる。地蔵の様にその時間をやり過ごす。和也は少し表情を曇らせたが、鼓舞するようにすぐ晴れ晴れとしたものに変わった。「メシ食おうぜ」言われるがまま席につくと、同じく白で統一された食器で朝食がサーブされる。尻が座らない空間でまるで湧いてこない食欲を叱咤しながら口へと運ぶ。ショコラに始まり、ヴィシ・ソワーズ,ポーチ・ド・エッグ,薄くスライスし軽くトーストされたバゲット,本日はデンマーク産ジャージー種の醗酵バターで御座いますと言われてもはぁそうですかとしか言いようがない。出されたものを端から機械的に咀嚼するカイジの様子を、向かいに座っていた和也は終始微笑んで見ていた。その視線を受け、どうしていいか分からず、カイジも曖昧に笑った。最後にブラッドオレンジのジュレを飲むように流し込み、食後の珈琲を断ると、カイジはようやく窮屈な朝食を終えた。
「あの、和也・・・・・・俺、お前の仕事の、手伝い、してたって話だけどさ。何やってたんだ?」
「ん・・・?カカカ・・・!なになに、そんなことが気になんの?」
「いや、だって・・・もう俺、身体の調子戻ったし、問題ねぇのに、ダラダラ寝てるわけにもいかないだろ?」
「クク・・・!カカカカカカカ・・・・!・・まさか、カイジさんから、そんなセリフ・・・クゥクゥ!」
突然爆笑され、ムっときたカイジに気付いた和也は、それでも膝を打ってひとしきり派手に笑った。
「あ〜苦しい・・・・・・な、カイジさん、どっか行かね?」
「は?」
「どっか行こうぜ、俺アンタとデートしたい。」
「いや、デートとか・・・・・・っていうか、お前学校は?高校生なんだろ?」
「ん〜?ああ、今日は創立記念日で休み。」
「嘘吐け。」
「ホントだって。」
「・・・・・・・・・まぁ、いいけど。」
渋々了解すると、飛び上がらん勢いで和也は喜んだ。ああ、コイツ結構子供っぽい顔で笑うんじゃん。普段から、もっと肩肘張らずにいりゃあいいのに、御曹司だの、経営者だのって立場があると面倒なもんなんだなとカイジは素直に思った。それで、和也は「付き合っていた」と主張しているが、自分としては世話を焼くだけのつもりで一緒にいたのかもしれないなと思い立つ。先輩が後輩の面倒を見る、程度のものだったんじゃないのか?過剰と感じるスキンシップも、寂しさからだろう。そう考えると、少しだけ肩の力が抜けた。
「で、どこ行くんだよ?」
「カイジさんと、デートするんなら・・・そうだな・・・。」
デート、という言葉には閉口しつつ、支度する。今度は、差し出された手を素直に受け取って車に乗り込んだ。和也は至上の楽園にいるような表情だった。
同棲、というか、カイジの感覚としては居候生活が始まって、ふた月近く経った。傷んだ身体は完全回復を果たし、和也宅での生活にも勝手を覚えて慣れた。慣れはした。慣れはしたが、相変わらず馴染めない。借し出された猫の様な感覚が拭えず、どこにいても腰が据わらない。体力が余っているのに家でじっとしていることが苦痛で、しかも常に監視がついていることに気疲れのあったカイジは独りで出かけたいのに止められる。何故、と聞けば、カイジさんが階段から落ちた原因が分からないのに危険だという。危険?事件性があるっていうのか、と問えばそれは分からないが念の為と返ってくる。じゃあ、俺が倒れてた現場に連れて行ってくれ、何か分かるかもしれないだろと頼めば烈火の如く反対された。理由を聞けども要領を得ない内容しか返ってこない。ウンザリして、なら、和也の仕事の手伝いに復帰させてくれよ、世話になりっぱなしも嫌だし、と嘆願すると今は頼むことが無いし、いいとのお達し。「カイジさんはただそこにいればいい」という。
仕舞に不満からカイジが感情を爆発させると、毎回「大丈夫。」と抱きしめられた。
カイジはこれにどうしても慣れることができなかった。
普通、抱擁という行為には愛情が伴うものであり、そこに安らぎが生まれるものだが、カイジの場合は逆に身体が震えた。感動からではなく、言い知れぬ恐怖心から震えが止まらなかった。その様子を見て、和也はいつも僅かに眉根を寄せて回した腕を解く。その顔を見る度にカイジの心中はチクリと痛んだ。俺が罪悪感に陥る必要なんてないのに。夜、毎晩の様に一緒に寝ようと言われて断る時も、同じような顔をされて、同じように心が痛んだ。
俺が罪悪感に陥る必要は無い、・・・はず・・・・・・本当は、あるのかもしれないが?
だがふた月も過ぎると、我慢も限界に達した。和也は一緒であれば外へ出してはくれるが、独りでは絶対に出そうとしなかった。相変わらず発見現場の案内は全力で避けられ、外出できてもせいぜい数時間。大抵近場で済まされる。しかもSPがベッタリ付いている。それらに納得し、日常として生活リズムに溶け込ませていく為の素質が、カイジには皆無だった。
何度目かの言い合いをしたあくる日。黒服の男たちが和也の一挙手一動に集中している隙を狙って、カイジはマンションから逃げ出した。家出、というよりは脱走、という方がシックリきた。行く先や当てなど無い。自分が住んでいた所は相変わらず思い出せないし、誰か頼ろうと級友の顔を思い出したが、野茂、伊達、羽生の三人がこの状況についていけるとは思えなかった。まして、実家に帰るのはもっと不可能なことに思われた。この風体だ。訝しまれるに決まっている。自分でも説明できないのに、どう分かってもらうというのだろう。他に誰の顔も思い浮かべることもできないまま、それでもこのままここにい続けることは何かが違うという本能の警鐘に従って闇雲に走った。南青山にある和也のマンションから、一番近い駅を目指す。小銭を握りしめて乃木坂駅の湾曲したホームへ降り、ちょうどよく滑りこんできた電車に行き先も見ないで乗り込んだ。すぐさま椅子に座って目を閉じる。今の精神状態では、黒スーツの男を見ただけで腰が抜けかねない。
しばらくして、車内アナウンスが流れると、この勢い乗り込んだ列車は東京メトロ千代田線・柏行きだと判明した。ともかく東京を出よう、と思い二度の乗り継ぎを経て京葉線に転がり込む。平日、午後二時という中途半端な時間の下り電車は、舞浜へ向かう観光客すらもまばらだった。時々車窓から海が見える様になって、カイジはようやく落ち着きを取り戻し、景色を見た。人工的に切り出された不自然な海岸線沿いに、新旧の高層ビルが乱立している。人が永住するには不自然すぎる街だ。生活の臭いがまるでしない。
そういえば、京葉線なんて、中学の修学旅行でディズニーランドに来て以来だな・・・
しばらくぶり・・・・・・・・しばらく・・・・・・・・しば・・・らく・・・
列車は東京を離れひたすら千葉の海岸沿いを進む。ふと、近代的な超高層ビル立ち並ぶ最奥に、一際真新しいツインビルが小さいながら目に飛び込んできた。
あっ・・・・・・?
反射的に身を乗り出して目を凝らした瞬間、肩を掴まれた。その手は、何かを訊ねる為の遠慮がちなものではなかった。
和也は口一杯の苦虫を噛み潰した挙句飲み下したような、苦り切った顔でそこにいた。その眼前に引き出されたカイジは、叱られて拗ねた子供の様にいじけて足元ばかり見ていた。
「なんで逃げた。」
抑揚を抑えた声は、逆に怒りの度合いが伺い知れた。
「なんでって・・・別に、逃げたわけじゃ、ねーよ・・・・・独りで、外、出れば・・・記憶が、戻るかもって、思ったから・・・それに、お前がっ・・・!」言いながら、初めてまっすぐに和也の顔を見た。思わず二の句が詰まる程、酷いものだった。顔面は蒼白に
染まり、掻き毟ったのだろう、髪がひどく乱れていた。
俺はいい大人で、しかも、たった半日だぞ?なにがお前をそこまで動揺させた?
「アンタは記憶なんて戻す必要、ないよ。今までずっと俺の傍にいたんだ。今までと何も変わってねぇ!何も変わってない・・・・・・変わってねーんだっ!」最後の方は、ほとんど悲鳴に近かった。握り込んだ拳がブルブル震えている。
「和也・・・・・・。」
カイジは呆然とその様子を見守るしかなかった。
しばらくして、震えていた拳がピタリと止まると、和也は音も無くソファから立ち上がった。その異様な圧力に、カイジは身じろぎも出来ず、和也がこちらに近づいてくるのをただ見ていた。
互いの距離が30センチになった。
和也が強い視線でカイジを射る。
カイジも金縛りにあったように和也を見た。
和也の手がカイジの顎に延びる。
引き上げると、そのまま強引に唇を塞いだ。
突然のことにカイジは目を見開き、一拍遅れて暴れたが手首を取られ押さえつけられた。ものすごい力だった。こいつは、俺が壊れようが目的さえ果たせればそれでいい、と思っているに違いないと本能で感じ取らされるだけの殺気立った強さだった。
喉奥まで舌が押し込まれいいように蹂躙された後、舌を思い切り吸われ噛まれる。こいつこのまま俺の口ん中食う気じゃないだろうな、と錯覚するほどの激しさだった。恐怖心から飲み下すことも叶わなくなった唾液が一筋、二筋と流れを作る。粘度の高い液体が皮膚を這う感触が更に肌を粟立たせた。それがカイジの喉元を濡らした頃だった。
「カイジ。」
一度唇が離され、耳元から和也の冷え切った声が侵入してきた。今や色が悪くなり始めたカイジの手を握る力を少しも緩めずに続けた。
「お前、俺の仕事の手伝いしたいって言ってたよな。今からしてもらうか・・・?」
それがなんなのか、聞く必要はなかった。太ももに痛いほど押し付けられた和也の屹立したペニスが、カイジにそれがなんなのか雄弁に物語っていた。
ベッドに放り込まれると、カイジはすぐさま手枷を付けられた。
やめろはなせふざけんなよせさわんなばかやろうなにかんがえてやがる
思いつくだけの罵詈雑言を放つが和也の頬すら撫でられなかった。
「あんまし暴れると、うっかり折っちまうかもな。」
恐ろしいことを涼やかに口にしながら、括った両手をベッドの柵に固定する。カイジは初めて恐怖した。なんだかんだ言って、相手はヤクザの息子だということを今更思い出したのだ。
和也は血の気の引いた身体に馬乗りになるとその首元を思い切り噛んだ。カイジが色気の無い悲鳴を上げるが知ったことではないという様子、手加減の期待出来ぬ素振りに身を捩って逃げると、今度は服の上から構わず肩を思い切り噛まれた。耳元で和也の荒くなった呼吸が嫌でも鼓膜に届き全身が総毛立つ。「いてぇ!いてぇってやめろ!」制止を聞く相手でないと分かっていても口に出さずにはいられない。「カイジは噛むと喜んだぜ?」先程とはうって変わって笑いを噛み殺したような、愉快でたまらないという様子で告げる。「そんなの知るか!なんでもいいから今すぐやめろっ!」叫ぶ間にも和也の動きに躊躇は無い。カイジの、細く白いが硬く引き締まった二の腕に舌が這う。それが赤く腫れた手首に届くと、舌を歯に変えてそっと噛み軽く横へ滑らせた。途端にカイジの身体がビクリと跳ね上がる。「カイジって、才能あるよな、やっぱ。」おかしくてたまらないといった様子で性悪に嗤う。呪詛の様な嗤い声だった。聞くと、思想も人格も破壊される類の歪んだ声。「ふざけんな・・・!なにがコイビトだ!これのどこがコイビトだってんだよ!」燃えるような憎しみの目も、和也は柳の様にスルリとかわした。「・・・カイジ、だから、これから・・・急ぐなって・・・ああ、まぁいいか。」言うなり、ズボンのベルトに手がかかった。今度はカイジが蒼白になる番だった。「暴れたら、アンタを逃がした黒服が痛い目見るぜ。カイジ嫌だろ?そういうの。」カイジはぎょっとなって上げかけた足をピタリと止めた。「てめっ・・・」和也の顔を見ると、その目には光が無く、口の端が僅かに角度をつけていた。やるとなったら本気でやる顔だ。「ふっ・・・・ふざけんな!馬鹿野郎!お前っ・・・・・・・最低だっ・・・!畜生が・・・・!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・アンタって、記憶、無くしても、・・・・・・・。」
和也は目を伏せると、躊躇なくカイジの着物を引き剥いだ。その足を大きく割って間に入ると、カイジのヒダに自らのイチモツをあてがう。
「ちょ、なに・・・!」
突然の動きにカイジが驚愕の色を浮かべるが、和也にしたらそんなことはもうどうでもいいことのようだった。標準を合わせて、体重を乗せるのに苦心している。次に自分の身体に何が起こるか、考えなくても分かった。「和也、無理だ!入るわけねー、だ・・・っあああぁぁぁああああっ!!」緊張で強張り、乾ききったアナルに、先走りすらないペニスが強引に押し当てられた。「大丈夫、入れば濡れるって・・・」言いながら腰に力をこめるが、亀頭の半分も隠れない。堪らずにカイジの目から生理的な涙が零れた。
痛い、熱い、痛い、痛い、いたい、イタイ!!!!!
「んー、カイジ、ローション使う?入らねぇや。」目の前の状況が見えていないかの如く、あっけらかんとした調子で和也は言った。下では激痛のあまり全身から汗が噴き出し、もんどりうっている人間がいるというのにそれがなんなのか分からない子供の様な目で見ている。カイジはその目に慄然となってただコクコクと頷いた。
間をあけず、カイジの萎え切ったペニスの上から冷えたローションが遠慮なくぶちまけられた。谷を求めて進む粘液の感触の気味悪さに腰を浮かせると、「あ、その角度だと入れやすいぜ」と和也が新発見をしたような声を出す。「な・・・・、こんなモン使ったって・・・・入るわけ、ねーよっ・・・」「大丈夫だって。もうアンタ、俺のに慣れてんだから。」和也はカイジの言うことなどまるで参考にする気の無い様子であった。既に無理な力をかけられ赤く腫れたそこに、再び怒張が押し当てられ、カイジの咽から悲痛な声が上がった。
「無理だっ!無理だってやめろ!!入るわけ・・・っ」
「大丈夫だって。俺って信用ねぇなぁ。」
苦笑しながら和也はゆっくりと体重をかけた。ずる、ずる、という感触をカイジの肉襞に伝えながら侵入する。
初めは強情な守りに苦戦を強いられたが、綻びを分け入って少し進むと簡単に解れ、それは拍子抜けするほどアッサリと収まってしまった。
「ほら、な?入ったろ・・・?」
「嘘っ・・・・だっ・・・・・」
「嘘じゃないって。なら見る?」
頭を抱えられ、接合部を無理やり見せられた。そんなことをされなくても、下半身いっぱいに広がる不快感が十分に警鐘を鳴らしていた。
「ヤだ・・・やめ・・・」
力なく頭を振るとまたカイジの目から大粒の涙が零れた。括られた手は痺れ始め、酷く疲労していたが自覚する余裕すら無い。
「そうそう、そういう顔・・・」
和也は薄く笑うと一度腰を引き、また体重を乗せて打ち付けた。体内で起こった不意の出来事に、筋肉が応答してカイジの身体は大きく跳ねる。それが何度も繰り返されると、抽挿を繰り返す水音と、ベッドの軋む音と、カイジの呻き声と、和也の荒い息だけがその場を満たした。
内臓を激しく掻き回されて戦慄く肌が、朱を帯びてじわりと濡れ、骨ばった腰を掴みあげる和也の手にピッタリと吸いついていく。
「カイジ。どう?」和也は満面の笑み。
「きも、ち・・・わり・・ぃ・・・っ・・も、やめっ・・・」
蚊の鳴くような声は水音にかき消され、空気を震わせることはほとんど無かった。答えを確認しないまま、数回蠢くと和也は最奥を突きようやくそこで動きを止めた。荒い息を整えないまま自らを引き抜くと、和也は「あ。」と小さく声を漏らした。眼下には、萎えたまま果てたカイジのペニス。小鹿の様に震える足を抱えたまま、愉快そうにクゥクゥ笑って言った。
「ほら、カイジさんもイケた。」
枷を解かれても、カイジの腕は強張ってなかなか言うことをきかなかった。その変色した手首を、和也は愛おしそうに擦る。
なんだ、こいつ・・・・・・・。
無茶をされた怒りより不気味さが先立った。
「カイジさんはね、こうされんのが好きだったんだぜ。」
僅かに血の滲んだ個所に舌を宛がって言う。
「テキトウなことふかしてんじゃねーよ・・・」
気力を振り絞って悪態をついた。意味がないことは分かっていた。
「なんだよ、カイジさんが記憶がどうだこうだ言うから協力したんじゃん。」
まるで悪びれる様子も無い。先ほどの弱り切った姿はどこへやら、今にも口笛でも吹きそうな勢いだ。
「和也。」
「あ?」
「俺の仕事ってこれか?」
「そうだって言ったろ。」
「お前は俺を買ったのか?それでコイビト同士とやらになったのかよ?」
「ん・・・?まぁ、まぁ・・・・・・そういうわけじゃねぇが・・・カカカ!だから恋人だって。」
自分の身体から、血の気が引くのが分かった。
酷過ぎる。
あんまりだ。
カイジはぎゅっと目を閉じると、数回、深い呼吸を繰り返した。
「・・・和也、恋人ってのは部屋に閉じ込めておいとくもんじゃない。お前は間違ってる。」
「は・・・・・・?なになに、恋人に正解とか不正解とかあんの?」
「ある程度あんだよ。」
「じゃあ、アンタからしたら俺の何が不正解だっての?」
項目数で言えば正解を挙げた方が断然早い。
「なぁ、和也。記憶が無くなる前の俺がお前とどう接していたか俺には知る由もねぇ。記憶の積み重ねが人格を作るんだとしたら、今の俺はお前の知ってる俺とは別人なんだよ。何が言いたいか分かるな?」
「わかんねぇ。なに?」
「俺は俺で動きたいって言ってんだ。こんなところで飼殺しの監禁まがいなんて冗談じゃねぇ!それが恋人だって?ふざけんな。大概にしろ!」
「・・・・・・・・・カイジ、俺といんのがイヤなわけ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇよ。」
まるで子供だ。ここまで言葉のニュアンスが伝わらない人間に、カイジは出会ったことが無い。
和也は本当に、本当に何を言われているのか分からないという顔をした。
ぎこちない身体を起こし、カイジは和也の顔をしっかりと見据えて言った。
「和也、黙って出ていったことは謝る。俺はお前からもう二度と逃げない。約束する。だから外出くらい自由にさせてくれ。あとこういう」手首を指さしながら、「無茶はもうやめてくれ。」
「・・・・・・・・・恋人なのにか?」
「恋人だから、だ。」
「・・・・・・?」
「・・・今の俺は、少なくとも嫌がってんのに無理やり縛ったり脅迫まがいのことを言う奴は好きじゃない。」
カイジがそう言い放つと、和也は白けたように「好きにしなよ」と言い、身繕いもそこそこに場を後にした。
その背を見送るカイジには確信があった。
和也は嘘をついている。

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