―前編― |
その日は、森中に早春の優しい光が差し込んでいました。コナラやブナの木が青々とした瑞々しい葉を茂らせ、地表に降る光を柔らかく包み込んでいます。 まだ少し冬の寒さの残る陽だまりの中で、番と体を寄り添わせてうたた寝をする狸、木の枝に絡みついて腰を落ち着ける蛇、無邪気に蝶と戯れるリスの子供たち。森の住人は思い思いの時間を過ごしていました。 空はどこまでも澄んでいます。 爽やかな風が時折吹き抜けていきます。 お日様は、笑いかけるように暖かい。 そんな日のことでした。 不思議な森がありました。その森は、4つの区画で、四季が代わる代わる移り変わるとても不思議な森でした。 ノースブルー イーストブルー サウスブルー ウェストブルー そう呼ばれる区画があり、ノースが冬ならサウスは夏、イーストが春ならウェストは秋、そして、一つの季節が過ぎると、今度はノースが春ならサウスは秋、イーストが夏ならウェストは冬、というように、同じ森の中で、四季が同時に存在し、そして同じ森の中で、四季がちょっとずつ移り変わって巡って行くのです。その為、沢山の動物たちが共存する不思議な森となりました。 そして、このうちの一つ、“イーストブルー”と呼ばれる区画の静かな森に、とても雄雄しく猛々しいけれども、まだ王者と言うには若すぎる虎がおりました。春の陽気の中、腰を下ろし、一人静かに遠くを見ています。 この虎も、不思議な森に相応しく、とても不思議な毛並みをしていました。 虎模様の縞が、なんと緑色なのです。琥珀色の毛並みに、緑の縞模様。瞳まで、お揃いの緑色。 4つの森を放浪する流れ者で、とても恐ろしい牙を持っているので、森の住人に怖がられていました。その為に、この虎は、他の森はおろか、このイーストブルーですら誰とも、まだ口をきいたことがありません。“緑色の乱暴者”、そう影で呼ばれていることすら知らないのです。 とても孤独な虎でした。 空はどこまでも澄んでいます。 爽やかな風が時折吹き抜けていきます。 お日様は、笑いかけるように暖かい。 ふいに、遠くから、この柔らかな時間を引き裂くような、でも、小さく弱々しい悲鳴がこの虎の耳に入りました。ピン、と耳を立て、辺りを窺います。 まだその声は聞こえます。何を言っているのかは分かりませんが、助けを求めているようです。 ノソリ、と動くと、その方向へと足を進めます。 蔦の絡まる根っこを跨ぎ、生い茂る葉の重なりをやり過ごすと、突然視界が開けました。遠くで、二つの影が、争うように動いています。片方は、明らかに動きが鈍く、分が悪く見えました。 目を凝らすと、どうやら何か小さな動物が、ワシに襲われているようです。なんの動物かは分かりませんが、毛並みが日の光を反射して、黄金色に輝いていました。虎は知らず知らずのうちに近づいていきます。まるで、自分の足が自分のものじゃないみたいに、フラフラと動いてしまいます。 金色のそれは、まだ小さな小さな子狐でした。黄金色の衣を纏ったかの様な、フサフサとしたキツネでした。片目から酷く血を流して、その血が美しい毛並みまで汚していました。ワシを必死に振り切ろうとしていますが、上手くいかないようです。 それがこの広大な森における、自然界での掟です。しかし、緑の縞を持ったその虎は、そのまま歩を進め、ワシを追い払ってやりました。 キツネは今やグッタリとしています。血をひどく流してはいますが、どうやら生きているようです。ですが、頬をペロペロと舐めても、浅い呼吸をするばかりで、目を開きません。 虎は、キツネの首筋を噛み切らないようにそっと咥えると、森の奥へと姿を消していきました。まだ冬の寒さが少し残る、早春の日の出来事でした。 「ひえっ」 僅かな赤い夕日が入る、森の奥の涼やかな洞に、素っ頓狂な声が響きました。昏々とした眠りについていた“緑色の乱暴者”の虎は、その声でハッと目を覚ましました。顔を向けると、金色の小さな動物が、カタカタと震え、怯えています。だって、さっきのタカよりももっと立派で、見たことも無いくらい大きな大きな虎がいるのですから。 「おおお、おまえ、、、」 キツネは、恐怖で言葉が上手く出てきません。 食べられる! そう思って目を閉じると、顔に、ベロン、と舌の生暖かい感触がありました。 「ひっ!」 もう一度声にならない悲鳴を上げました。 舌なめずりしてるんだ!ああ、もう駄目だ、食べられる! ですが、それきり、目の前の虎は、そっぽを向いてしまいました。 「・・・?」 キツネは大きな目を真ん丸く開いて、まじまじと虎を見つめてしまいました。 だって、さっきのタカよりももっと立派で、見たことも無いくらい大きな大きな虎が目の前にいるのに、その虎は自分を食べようとしないのです。 不思議に思って、残った右目で自分のいる場所を良く見ると、なんと虎の尻尾と腹の間にすっぽりと挟まっていました。それで、キツネはまたビックリしてしまいました。左目を抉られた痛みも忘れて、その尻尾から飛び出すと、一人で大騒ぎです。 「やかましい奴だな、少しじっとしていられないのか」 虎が、初めて口を開きました。まるで地獄の底から死の天使がやってきたような、恐ろしく、ぶっきらぼうで、でも暖かい声音でした。 「お、お前・・・俺を喰わないのか?」 キツネは今すぐ逃げ出したい気持ちをぐっと堪えて、なんとか話しかけました。口にしてから、「やっぱり気が変わった、喰おう」と言われるのではと、涼しい洞の中で更に冷や水をかけられたような気持ちになりました。 「・・・お前みたいなのを喰っても、腹のたしにならん」 なんて奇特な虎なのでしょう。目の前に弱った獲物がいるのに、喰う気は無い、というのです。キツネは、なにか変なモノを見つけてしまったような気分になりました。 「お前、俺を助けてくれたのか?」 今度は、おずおずとではありますが、なんとか話しかけることができました。 「気が向いたからな。お前、ワシに立ち向かうなんて、キツネのくせに根性あるな。キツネはこの辺じゃ見ない。迷い込んだのか?」 「うん・・・必死に、逃げてきたから。ここ、どこなんだ?まだ、ノースブルーなのかな?」 「さぁな。俺も、知らん」 自分のいる森の名前も知らないなんて!またまたキツネはビックリしてしまいました。 この森は四季が移り変わる森です。春の気候でしか生きられない動物達は、その度に移住しなければならないし、定住しているものなら、夏の備えを、秋の準備を、冬の蓄えをしなくてはなりません。サンジも、そうやって、ノースブルーで暮らしてきました。それなのに、この虎は、ここがどこだか分からないというのです。 「変な奴!」 キツネは思わずプッと噴き出してしまいました。でもその拍子に、抉られた左目の痛みが襲ってきて、呻いてしまいました。まるで炎で焼かれているような痛さです。残った茶色い右目も、つられた様に痛みました。 「その目・・・あのタカに喰われたのか?」 大分経ってから、うな垂れてキツネは答えました。 「ううん・・・俺・・・笑わないでくれよ、俺、“グランドライン”に行こうとして・・・でも、この森を出ないうちに、ハイエナに襲われたんだ。必死に逃げたけど、あいつら足が速くて・・・そしたら、今度はタカに襲われたんだ。と思ったら、アンタがいて・・・」 “グランドライン”とは、この広大な森を抜けた向こうにある、もっと広大なサバンナのことです。この森より四季の移り変わりが激しく、もっと厳しい気候をしているために木々やオアシスが育ちにくく、加えて起伏の激しい地形をした、選ばれたもののみが踏み入ることを許される、“強き者の住処”でした。 キツネはチラ、と虎を盗み見ました。ああ、きっと笑われる、そう思ったのです。そんなところに、子狐如きが足を踏み入れようとしたのですから。 でも、虎は真剣な目でキツネを見ています。ちっとも笑い出しそうな気配はありません。 「なぜ行こうとした?あそこは、お前では無理だ」 虎は至極尤もな事を言いました。全く、その通りです。非力なキツネに、どうして気候の厳しい彼の地で無事にいられましょう。事実、その地に辿り着く前に、この様です。 「俺のジジィ・・・ゼフじいちゃん、片足が無いんだ。俺がまだ小さい頃、俺を庇って、喰われちまったんだ。・・・でも、人伝に、“グランドライン”には、何でもあるって聞いたんだ。この世の何もかもがある、だから厳しい土地なんだって。知ってる?“オールブルー”って言って、強き者の望みを叶えてくれる宝玉があるってこと!それを見つければ、じいちゃんはまた元気になる!だから、俺は・・・!」 「馬鹿だな、そんな物、あるわけ無いだろう。」 虎は吐き捨てる様に言いました。仮にあるとして、一介のキツネが、“強き者”になれるわけがないのですから。 「そんなわけない!ある!絶対ある!絶対、ジジィは元通り元気になるんだ!!」 キツネは、虎がビックリするくらいの剣幕で言い返しました。 真剣でした。痛いくらい、真摯な眼差しでした。 「・・・仮にあったとして、ソレを見つけている間、お前のじいさんはどうするんだ。放っておく気か?それに、万が一・・・まぁそうなるだろうが・・・じいさんから貰った命を落とすことになったらどうする気だ。お前のじいさんは、お前に無茶をさせる為に、わざわざ足を喰われたわけじゃないだろう」 そう言われた途端、キツネは沈痛な面持ちになりました。 「・・・分かってる。分かってるよ、そんなこと。でも!俺だって、誰かを救えるんだ!俺だって、ジジィを助けたいんだ!!」 直視していられないくらい、痛いくらいに、真剣でした。 「・・・お前、体力が戻ったら、ここを去れ」 虎が、突然言いました。 「俺はいつまた気が変わってお前を喰う気になるか分からない。今は腹がイッパイだから喰う気になれないだけだ」 「イヤだ。俺、お前の側にいたい。俺も、お前みたいに逞しくなりたいんだ」 「馬鹿な。折角拾った命を、捨てる気か?自殺願望には、付き合っていられん」 「俺、見てたよ」 キツネは、突然言いました。 「俺、見ていたよ。今は片目だけになってしまったけど、残った右目で見ていたよ。雄雄しくて、とても強くて。夢かと思ってた、でも違う、今お前は俺の目の前にいる。俺もお前のようになりたい。お前の側にいたら、俺もお前みたいになれる気がするんだ。俺、グランドラインに行きたい。誰が馬鹿にしようが、有り得ないって言おうが、絶対行くんだ!」 目の激しい痛みに耐えて、息つく間も無く一気に捲くし立てました。虎は呆気に取られてしまいました。 「俺は、ここを立ち去れと言ったんだぞ。それとも、今すぐ喰ってやろうか?折角拾った命を、ここで捨てていくか?」 虎は軽く牙を剥きました。それだけで、キツネは縮み上がってしまいました。迫力が違います。力も、風格も違いすぎます。怯えながらも、金色のキツネは凛とした声で続けました。 「ううん、この命は、お前がくれたんだ。俺が今、命があるのは、ジジィが片足を失った代わりで、そして今度は、お前によって生かされてるんだ。俺は、お前と、ジジィに殺されたって文句は言えない。だから、お前に命を奪われるなら、それはとても正しいんだ。構わないよ。 なぁ、俺強くなりたい。 夢なんかじゃないって、証明してみせるよ。 どうか一緒にいさせてくれ。 突然気が変わってもいい。 俺、強くなりたいよ・・・!」 虎は、とうとう根負けしたように溜息をつきました。 「・・・お前こそ、変なキツネだな。いいだろう、好きにしろ。その代わり、恨みっこナシだ。・・・あと、俺の邪魔はするな」 その一言にキツネは、喜んだの、喜ばないの、そしてひとしきり一人で騒ぐと、言いました。 「じゃあ、名前を教えて」 そうです、まだ二人は名乗りあってもいませんでした。 「・・・俺を、ゾロと呼ぶ奴が遠い昔にいた。だから、俺の名はゾロだと思う」 なんとも曖昧な言い方でした。キツネは、ふふ、と笑いました。 「俺はサンジ。ジジィは、俺を“チビナス”って呼ぶけどね」 「サンジ、か。じゃあ、サンジ、今日はもう休め。お前は、俺に喰われなくっても、その傷で死ぬかもしれんぞ」 「ん・・・。でも、もう血は止まったみたいだ」 そうです、本当は、サンジは喋ることができないくらいの大怪我をしているのです。ごっそり取られてしまった左目は、幸いなことに血は止まっていました。それはゾロが一昼夜舐め続けてくれたお陰なのですが、サンジは何も知らず無邪気なものでした。 それでも、ひりつく様な痛みまでは取れません。痛みが蘇ってきたサンジは、再びゾロの尻尾の間に戻ると、ふわり、と丸くなりました。こうしていると、まるで空から金の綿毛が降ってきたように優雅です。血で固まった毛並みも、やはりゾロが舐めてくれたお陰で、すっかり元通りふわふわになっていました。 しばらくは大人しくしていたサンジも、どうにも興奮で眠れず、ついウズウズしてゾロに話しかけてしまいました。 「ねぇ、ゾロ。ゾロは、この森の生まれじゃないの?だから、ここがどこの森か知らないの?」 「・・・ああ、もっとずっと遠くだ。竹林しかないような」 「竹林??俺、そんなの見た事ない!」 「・・・そうだろうな、この辺じゃ、見ない」 「いつ、どうして、故郷から出てきたの?」 サンジは質問攻めです。ゾロは、ちょっと苦笑しながら答えました。 「出てきたのは・・・もう随分と経つかもしれないな・・・俺も、グランドラインを目指して旅をしている」 「じゃあ、俺たち一緒なんだ!・・・ん・・・?それなら、なお更、ここが森のどこか知らなきゃだめじゃないか」 グランドラインへ行くには、イーストブルーの森から入るしか方法はありません。それ以外では、絶対に行くことは出来ないのです。だから、グランドラインへ行きたければ、今、どこにいるのか常に把握していなければならないし、知っているのが普通です。 それなのに、ゾロはここがどこか分からない、というのです。サンジは不思議で不思議でたまりませんでした。 好奇心いっぱいの目を向けるサンジとは対照的に、ゾロは、とてもバツが悪そうな顔をしていました。 「・・・サンジ、笑うなよ」 ゾロは、相当小さい声で言いました。その真剣な表情に、サンジもつられて口元をキュッと引き締めます。うん、と力強く頷きました。 「・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・」 なんだか沈黙が続きます。 ゾロはとても言いにくそうです。 「・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・」 ぐぐっ。 思わず、サンジの足に力が入った瞬間、ゾロはボソリと言いました。 「・・・・・・・・・俺は、方向音痴なんだ」 ・・・・・・・・・。 「ぶっ・・・ははははははは!!!」 サンジは、ついつい約束を破って大笑いしてしまいました。 ゾロは、顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまいました。 「だって、虎が、方向音痴だなんて!」 「・・・・・・・・・もういい」 不貞腐れた後姿からも、湯気が見えるようでした。 「ああ、ごめん、ゾロ、そんなに怒らないでよ。・・・うぷぷぷぷ」 「コノヤロ、・・・喰うぞ!」 ゾロが牙を剥くので、サン ジは慌てて笑うのを無理やり押さえ込みました。例えその気がなくても、ゾロがその鋭い牙をチラと見せるだけで、動物たちは皆飛んで逃げて行くでしょう。 「ゴメンったら。でもそんなの簡単じゃないか、この森の人たちに聞けばすぐ分かるよ。たまに、嘘を教える人もいるから、何人かに聞いた方が良いけどさ」 「・・・・・・俺と話をしたがる奴は、どこにもいない」 途端に、虎の表情は寂しいものになりました。ふと、虎の顔の縞模様がサンジの目に入りました。もう洞の中は暗くて良く見えませんが、もしかして、この色は・・・そして、この虎は・・・? 「・・・もしかして、ゾロって、“緑色の乱暴者”?」 ゾロは、アタマに?マークをいっぱいに飛ばしました。 そうか、そう呼ばれていることも知らないのか。サンジは、慌てて口を噤みました。 「お前は、どうして俺を恐れないんだ。 ゾロは、本当に分からない、という顔をして言いました。そうか、サンジはやっと分かりました。なぜ、ゾロみたいな立派な虎がいつまでもこんな平穏な森でウロウロしていて、方々で“緑色の乱暴者”とまで呼ばれているのかが。 方向音痴が祟って森を抜け出せず、右往左往しているのを、森の住人たちは「自分たちの生活を脅かそうとしている」と勘違いしたのでしょう。ゾロはとっても立派な虎です、獲物を喰わなくては、その大きな体は維持出来ません。でも、その大きな胃袋を満足させるだけの大きな獲物は、あまりこの森にはいないのです。そうしたら、小さな獲物を、たくさんたくさん食べなければならないことになります。それで、皆ますます恐れていったのでしょう。 可哀相な虎でした。 とても孤独な虎でした。 「俺が怖くないのか?」 ゾロはもう一度言いました。 「だって、命を救ってくれたじゃないか。・・・それに、ゾロって、イイ奴だ。こうやって話していれば、それが伝わってくるんだよ。 なんと、サンジは大胆なことを言うものです。ゾロは、目を白黒させてしまいました。 「お前を、いつか喰うかもしれないのにか?」 「俺は、いつか食べられるかもしれないのに、だよ」 ふふ、とサンジは笑うと、続けました。 「それに、ゾロ、方向音痴な上に、誰ともお話が出来ないんじゃ、いつまで経ってもグランドラインへは行けないよ。俺って、意外と土地勘あるんだぞ。知らないヤツと馴染むのだって、うまいんだから!そうしたら、ゾロがグランドラインに行くためには、俺のことは喰えないよ。そうでしょ?」 最後に、悪戯っぽく笑いました。それを聞いた虎は、今度こそ観念した、という顔つきです。 「違いねぇ」 洞の外からふいに流れ込んできた暖かい空気が、二人をそっと包み込みます。 二人はちょっとだけ笑うと、そのままコトリと眠りに就きました。 こうして、立派な虎と、小さな子狐の、奇妙な共同生活が始まったのでありました。 「おはよう!楽しそうだね!ねぇ、君たち、ここは何処か教えてくれない?」 そうサンジが話しかけた途端、ついさっきまで取っ組み合いまでして遊んでいたイタチの子供たちは、顔を見合わせて飛んで逃げて行ってしまいました。追いかける間も無く、木々の向こうへと、あっという間に姿は見えなくなってしまいます。 まただ。 もうずっと、朝からこんな繰り返しです。 想像以上に、自分がゾロと一緒にいることは、知らぬ間に森中で噂になってしまっているようでした。それに、よっぽど、ゾロが森中の嫌われ者でもあることも思い知りました。 ゾロと一緒に暮らすようになってから一週間、ずっと体力を回復させるために洞に篭っていましたが、サンジも元来動き回りたい性分なので、ゾロが止めるのも聞かず、今日は散歩がてら洞を飛び出してきてしまったのでした。それに、相変わらず、この森がどこだか分からないのも気になって気になって仕方がありません。 気候や景色から言って、サウスブルーまで来てしまったか、まだノースブルーか、イーストブルーまで来ることが出来たのか、といったところなのですが。各森の境い目辺りや、特に、この時期の気候の変わり目は、とても曖昧な季節と景観を持っていますから、景色から今どこの森なのかハッキリと断定するのは難しいのです。確かなことは、その森の誰かに聞いてみるしかありません。 ところが、外に出てみれば、森の住人達の冷たい反応が矢の様に降り注ぎます。サンジは、なぜに自分がゾロといることがこんなにも知れ渡っているのか、不思議でなりませんでした。 ゾロと一緒にいるところは、まだ見られていないはずなのに。きっと、側にいる間に、匂いが染み付いてしまったんだ。 それは、別に嫌な事ではなかったけれど、寂しい気持ちになりました。何処へ行ってもこんな風に冷遇されたら、自分だったら、とても耐えられそうもありません。 ふぅ。 一息つくために、サンジは湖のほとりに腰を下ろしました。今日の空は少し曇ってはいますが、たまに雲間から顔を覗かせるお日様がとても暖かくて、思わずウットリしてしまいます。ですが、相変わらず、ここが一体どこなのかは分からなくて、頭がモヤモヤします。 今日は少し疲れてしまったし、もう諦めて洞に帰ろう、そう思った時でした。目の前の湖面に、一瞬、とても鮮やかな橙色がサッと映りこんで消えていきました。 なんだろう!? 好奇心に動かされて、まだ不自由が残る右目で辺りを見回しても、誰も何処にもいません。遠くで、何かの鳥がちゅんちゅん、と鳴くのが聞こえてくるだけです。 おかしいな? もう一度、今度は全身を使って見渡します。 やっぱり、誰もいません。 「そっちじゃないよ、坊や。ここ、ここよ。」 突然、まるで水の精のような、愛らしい声が空から降ってきました。その声の方へ顔を上げると、大木の枝に、今まで見たことも無いくらい立派な鳥がとまっていました。なんと、羽が鮮やかな橙色をしています。頭にも、背中にも、飾りの羽が沢山付いていて、とても豪華な感じがします。サンジは圧倒されてしまって、しばらく声が出てきませんでした。 「なに、口をポカンと開いてるのさ。そんなに、私が珍しい?」 橙色は言いました。サンジは、ただこくこくと頷きました。 「ふふ、私は極楽鳥なのよ。春の間だけ、このイーストブルーに来るの」 「イーストブルー!?ここは、イーストブルーなの?」 思わず、サンジは叫んでいました。 「なに、アンタ、そんなことも知らないの?・・・あぁ、それで、さっきから・・・アタシはてっきり、あの虎の獲物を、代わりに探してるんだと思ってたわ」 「そんな言い方、しないでよ・・・」 サンジはしょんぼりしてしまいました。 「ねぇ、どうして皆知ってるの?俺、ずっと洞にいたから、一緒にいるところ見られてないはずなんだよ?」 「そんなこと言ったって、虎と狐の組み合わせなんてさ。隠してるつもりでも、イヤでも目立つわよ。ねぇ、なんで、アンタあんなのと一緒にいるの?」 サンジは、あの虎はゾロという名で、グランドラインを目指しているけどこの森を抜けられずに困っていること、そして自分を助けてくれたことを一生懸命話しました。 橙色の鳥は、ふぅん、と鼻を鳴らしました。 「あぁ、そういえば、お互い名乗ってもいなかったわね。私は、極楽鳥のナミ」 「俺、狐のサンジ。君、綺麗な橙色だね。そんな羽、初めて見たよ」 「あら、これは、蜜柑色って言って頂戴」 サンジが、「綺麗な蜜柑色」と訂正すると、ナミは「素直な子は好きよ」と笑いました。 「ここはイーストブルー、まだ春になったばかりよ。どちらかと言えば、サウスブルー寄りって言えるかしらね。グランドラインへは、多分、まだ距離が大分あるわよ。私は、ここが夏になったらすぐ春になっているノースブルーに行ってしまうから、詳しい場所までは知らないけど」 「そう・・・」 あからさまに、サンジはがっかりしてしまいました。 「ね、サンジ君。またいつか、同じ時間にここへおいで。アタシは、いつも今くらいに、この辺の水場に来るから。今度、お友達を紹介するわ」 「お友達?うん、きっとまた来るよ!」 「それじゃあ、今日はもうお帰りなさい。日が傾きかけてきたわ。まだ、目が悪いんでしょう?」 いつの間にか、お日様は傾き、すでに黄色に変わり始めていました。ゾロを思い出したサンジは、名残惜しそうな顔をしながらも、慌てて洞へと戻っていきました。 洞の奥へと進むと、相変わらず仏頂面のゾロが惰眠を貪っていました。最近分かったけれど、ゾロはとても面倒くさがりやで、放っておくとろくに水浴びもせず、気付くといつも寝ているようなしょうがない虎でした。 本当に、この虎は森中で噂され、恐れられているような猛獣なのかしら?と疑わずにはいられません。起こさないようにそっと近づくと、ゾロの耳がピン、と立ってすぐに目を覚ましました。 「・・・サンジ。今時分まで、何処に行っていた」 「なんだ、起きてたの。ねぇ、そんなことより、俺、お友達が出来たんだよ!極楽鳥のナミって言って、とっても可愛らしい鳥さんだよ。それでね、聞いたんだけど、ここはイーストブルーだって。そしたらもう、グランドラインはすぐ側だね!」 「“トモダチ”?」 一気に捲くし立てるように話すサンジに苦い表情を浮かべたゾロは、訝しんだ声でオウム返しをしました。 「そう、ト・モ・ダ・チ!ゾロも、今度一緒に会いに行こうよ!」 精一杯の空元気でサンジが言うと、ゾロは小さく、「俺はいい」と言ったきり黙りこんでしまいました。 「・・・どうして?」 サンジは、悲しい顔をしないように、必死になって明るく話しかけました。でも、岩のように凝り固まったゾロの心を動かすことは出来ません。 「・・・そんなことよりも、ここがイーストブルーなら話が早い。明日から特訓するぞ、サンジ。お前は、強くなりたいんだろう?遊んでる暇は無い」 キツイ口調で言うと、それきり、ゾロは再び目を閉じてしまいました。 猛獣の虎が、森の皆と仲良くするなんてこと、出来るわけがない。だって、喰うか喰われるか、それが森の掟だもの。そんなこと、分かってる。 仲良くなんて、出来るわけない・・・けど・・・。 考えても仕方がないことなのに、頭の額らへんがモヤモヤして、どうにも落ち着きません。そのまま朝を迎えるまで、サンジはずっとぐるぐると悩んでしまいました。 翌日から、ゾロは宣言通り特訓を開始しました。 それは、とてもとても厳しく、キツネには、まして、目を負傷したばかりの小動物には耐えられようもないくらい厳しいものでした。それでも、サンジは必死に、毎日毎日、ゾロにくらい付いていきました。 強くなりたい。 ジジィの足を返してあげたい。 その一心で頑張りました。耐えました。涙が溢れそうになるのも、堪えました。ゾロが本気になり、本当に殺されてしまうかもしれないと言う恐怖にさらされながらも、それでもついていきました。無茶苦茶をするせいで、いつも怪我が絶えず、目の治りもあまり芳しくありません。 それでもサンジは飛んだり跳ねたり、元気いっぱいに動き回りました。もう虫や木の実を採って食べる元気も無くなって泥の様に眠りこんでしまうくらい、それくらい動き回りました。 それから幾日が経ったでしょう。 ゾロと取っ組み合いばかりをする日々が続いていましたが、今日はゾロが一人でお出かけをするというので、特訓はお休みとなりました。でも、方向音痴のゾロが出かけて、まともに帰ってきたことなど数えるほどもありません。その度に、サンジは水場で鳴き続け、ゾロを待ち続けました。 まったく、本当にしょうもない虎でした。 それで、サンジは久しぶりに、朝からあの水場へとやってきました。あれから随分経ってしまったから、もう来ないかもしれないと思いましたが、それは杞憂だったようです。間も無く、湖面に鮮やかな蜜柑色が舞い降りました。 「あら、サンジ君、どうしたの。あれからついぞ来なかったじゃない、待ちくたびれたわ」 「ごめんなさい、ナミさん。前お話した虎のゾロと、毎日毎日特訓していたものだから・・・」 「嘘おっしゃい、どうせ他で番を探していたんでしょう?」 サンジは慌ててしまいました。尻尾が落ち着きなく、パタパタと動いてしまいます。 「違うよ、本当だったら。ほら、この傷見て。ここは、岩場にこすり付けた痕、こっちはゾロに引っ掻かれた痕、そんでこっちは・・・」 必死に身振り手振りで説明すると、蜜柑色の極楽鳥は、突然笑い出しました。 「ふふ、ごめんごめん、知ってるわ。毎日毎日、あの虎と取っ組み合いしてたわね。知らないでしょうけど、森のみんなして興味津々で見てたのよ。恐くって、誰も近づけなかったけどね。私は、空を飛んでいれば虎に食べられちゃうなんてこと、有り得るはずもないもの。ずっと、近くで見ていたわ」 サンジはビックリしてしまいました。 みんなに見られていた!? そんな気配は、微塵も感じられていなかったのに。 目を白黒させていると、「そんなことより、今日は、猿のルフィを連れてきたの。ルフィ!」と、ナミが大きな声を出しました。 果たして、姿を現したのは、サンジよりも一回り大きな体を持ち、血の様に真っ赤な体毛を持った立派な猿でした。ところどころに褐色のおもしろい模様が入っており、とてもかっこいい感じがします。 「よう、お前があの虎と一緒にいるっていうのに、喰われない珍しいキツネか。まさしく、“虎の威を借る狐”だなぁ」 かかか、っと猿は快活に笑いました。 サンジは、「そんなんじゃないったら」と、ちょっとむくれてしまいました。 「俺、ルフィ」 「ルフィは、この辺のことは、何でも知ってるのよ。知りたいこと、聞きたいこと、なんでも聞くといいわ」 でも、聞きたいことを聞く前に、やはり質問攻めにあってしまいました。聞かれることはナミの時と同じで、“どうしてあの虎と一緒にいることが出来るのか”。それを聞いていると、自分で思っている以上に、キツネが虎と一緒に生活するということは奇妙なことなのだ、と思い知りました。 「なぁ、お前知ってるか?“あの虎、キツネを喰わないんじゃなくて、喰えない理由があるんじゃないか?”って噂が立ってるんだぜ」 サンジは、左右にふるふると首を振りました。 「その“喰えない理由”ってのが、いろいろ言われてるけど・・・どうも、“あのキツネが旨くなるまで待ってるんだ”とか、お前が“一回り大きくなるまで待ってから喰うと、どんな奴より強くなれる”とか、『喰うと』いいことがあるらしいって噂でもちきりなんだ。もちろん、俺は下らないと思ってる。ただ、本気でそう思い始めてる奴がいるってことは確実なんだ。あの虎から獲物を掻っ攫おうなんて殊勝な奴はいないからな、実行に移す輩はそういないだろうけど・・・気をつけろよ、サンジ。お前、たまにここでずっと遠吠えてしてるだろ?それは、この森中の連中に、“俺は今ここにいますよ”って宣伝しているようなもんなんだからな。イキナリ、後ろからがぶっとやられるかもしんねーぞ」 サンジは、ポカーンとしてしまいました。 展開が目まぐるしくて、付いていけません。ただ、何かに気をつけておかないと、自分の身に近いうち何かが起こるかもしれない、ということだけは、胸に刻み付けました。 「あ、あぁ・・・ありがとう、わ、分かった・・・」 それしか返事が出来ませんでした。 そりゃ、ゾロはたくさんたくさん食べます。そうしなければ生きていけないし、それが生きるものの絶対の条件なのです。 でも・・・。 でも・・・・・・。 サンジは、それ以上お話をする元気もなく、早々にその場を立ち去りました。ナミもルフィも、名残惜しそうな顔をしましたが、引き止めることはしません。もう、サンジは、頭の中がぐるぐるしてしまって、うまく考えることどころか、道の小石を避ける事すら出来ませんでした。 その日も、結局ゾロは陽が落ちるまでに帰ってこられず、サンジは真っ暗闇の水場に戻って、ゾロの名を呼び、鳴き続けました。 昼間の、ルフィの言葉を思い出しながら・・・。 それからも特訓は続きました。相変わらずの内容で、それでもサンジは半べそをかきながらゾロに立ち向かいました。ゾロも相変わらず、フラリと外へ出て行っては、またフラリと戻ってくる(大抵は、自力で帰ってこられない!)生活を繰り返していました。 そんな毎日が淡々と過ぎていた、ある日のことでした。 曇り空の奥で陽が傾きかけた頃、ゾロが、怪我をして帰ってきました。それはいつものことだったけれど、何時に無く傷口の数が多いので、サンジは虎の体を、あっちを舐めたり、こっちを舐めたり、大忙しでした。 傷の半分程を舐め終えた頃でしょうか、口の中が鉄の味でいっぱいになり、ちょっとクラクラしてしまった時、ゾロは「もういい」と一言言うと、そっぽを向いてしまいました。ちょっと、不貞腐れているように見えました。 ここで、「どうしたの?」と聞いて、まともな答えが返ってきたためしは一度もありません。サンジは、洞の奥の、藁を敷き詰めている辺りをゴソゴソやると、中から赤くてシワシワに萎んでしまった小さな小さな木の実を持って、ゾロの前に放りました。 「ゾロ、これ、クコの実。食べなよ。こんなんじゃ、ちっともお腹いっぱいにならないだろうけど。傷に、とってもいいんだって」 「・・・」 ゾロは、やっぱりだんまりを決め込んでいます。 「ねぇったら、ゾロ。ホントに、効くんだって!だから、ちょっと、食べてみなよ」 それでもやっぱりゾロは口を開こうとはしません。鼻をフン、と鳴らすと、目を閉じてしまいました。サンジはたまらず、一粒を咥え、「ホラ!」と言って鼻先に突きつけました。その瞬間、背中が氷水に浸かったような、悪寒が走るほどの冷たい目を、ゾロはサンジに向けました。 「・・・それは、あの猿に貰ってきたモンだろう。俺は、絶対に食わない」 その一言に、サンジはビックリしてしまいました。時々、水場で会うナミとルフィの話はしていましたが、ゾロはいつも面倒臭そうに聞き流しているだけだろうと思っていたからです。まさか、覚えているなんて、思いもしなかったのです。 「そうだよ、ルフィが持ってきてくれたんだよ」 「俺には、そんなもの必要ない。いいから、寝かせろ」 「1粒くらい、いいでしょ?」 「いらん」 「ゾロったら!」 「しつこい!」 ゾロが、ぴしゃりと言いつけると、サンジはみるみる泣き顔になっていきました。 「なにさ!俺の気も知らないで!!ゾロの馬鹿っ!!」 サンジは叫ぶと、ぴゅーっと洞を飛び出して行ってしまいました。小雨降りしきる中、アッという間に姿を霧に隠し、どこにも見えなくなってしまいました。 ゾロは、フン、と鼻を鳴らすと、そのまま、また目を閉じました。でも、どうにも尾っぽがせわしなくパタパタと動いてしまいます。それに気付いて、意図的に止めるのだけれども、やっぱり知らぬ間に動いてしまいます。 やがて、ノソリ、と立ち上がると、首を2,3回振りました。 「全く、あの馬鹿チビ・・・俺の手を煩わせるなと、言っただろう・・・」 ブツブツと文句を口にすると、大儀そうに、暗灰色の雲に覆われた空の下、湿る大地を踏みしめました。 ゾロは、鼻をフンフンとやり、神経を集中させました。今日は小雨が降っていますから、早くしないと、匂いまで流されていってしまいます。それでも、すぐに見つかるだろう、ゾロはそうタカをくくっていましたが、どうにも勝手が違いました。 いくら鼻をフンフンさせても、あるところを境に、プッツリと匂いが消えてしまっているのです。 なんの変哲も無い小道を境に、まるで見えない壁でもあるかのように、匂いが消えてしまいました。ゾロは相当、焦りました。さっきまでは小雨だった雨も、今や立派な大粒の雨となっています。時折傷口に当たり、ピリッとした痛みが走ります。 まさか、サンジのやつ、どこぞで息絶えたのでは・・・。 嫌な考えが、浮かんでは消えました。 何度も、あんな口うるさい小キツネ見捨ててしまえ、と本能が語りかけてきました。自分にとって、サンジは足手まとい以外の何者でもないのですから。道案内なら、他を探せばいいじゃないか。 それでも、足はあっちに、こっちに、動いてしまいます。木のそこかしこに、蔦が這いまわっていて、余計に手間がかかりました。それでも、サンジは見つかりません。そのうちに、自分まで迷子になってしまいました。 参ったな・・・。 もはや、前にも先にも、進めなくなってしまいました。 以前の自分だったら、振り返る場所なんて無かったのだから、分からなくても問題はありませんでした。でも、今は違います。帰らなくては、ならないのです。振り返らなくては、ならないのです。 でも、どうしようもありません。 手がかりがただの一つも無いことに、うちひしがれてしまいました。 心細さに拍車をかけるように、辺りはどんどん陽が落ち、暗さを増していきます。 こんな気持ちは、初めてでした。 うな垂れて静かに雨に打たれていると、ひゅっと頭上で音が鳴りました。反射的に顔を上げると、なんとも鮮やかで華美な橙色の鳥が、木の一番低い枝に止まり、挑戦的な目つきで自分を見下ろしていました。 「はじめまして、“緑色の乱暴者”さん。あなたが、ゾロね?」 なんと、鳥は自分の名前を口にしました。しばし固まっていると、その鳥は続けました。 「私、サンジくんと親しくさせてもらっている、極楽鳥のナミよ。彼から聞いたこと、なかったかしら?」 「・・・お前か、あのアホが毎日毎日言ってた鳥は」 ゾロがやっと口を開くと、ナミは嬉しそうに目を細めました。 「あなた、サンジくんの匂いがしなくて、困っているんでしょう?」 ゾロは答えませんでした。それが、十分答えとなりました。 「“ケシケシの実”って、知ってるかしら?この森の、ずっと外れに生えている木の実のことよ」 ゾロは相変わらず黙っていました。ナミは、その様子を気にすることなく続けました。 「この実はね、果汁を体に刷り込むと、体臭が綺麗サッパリ消えてしまう不思議な果物なの。イーストブルーじゃよく知られているけど、すごく採りにくいところにしか生えないから、便利なのに、あまり使われてないみたいなんだけど」 「・・・それを、サンジが使った、ということか?」 ようやっと、ゾロは口を動かしました。そういえば、今気付きましたが、この森で口をきくのは、この橙色の鳥で、二人目です。ゾロは、なんだかくすぐったい気持ちになりました。 「サンジくんが欲しがったから、私が採ってきてあげたのよ。あのコ、怒ってて、そりゃ、もう。怒って、怒って、なだめすかすのにどんだけ大変だったか」 ナミはその情景を思い出したらしく、転げるように笑いました。 ゾロは、悪趣味な女だなぁ、と思いました。 「っと、いうわけで、サンジくんの行方は私も分からないの。なんせ、ケシケシの実を使われちゃあ、ね。いくらなんでも・・・ちょ、ちょっと、待ちなさいよ!」 ゾロは、長居は無用とばかりに立ち去りました。サンジはケシケシの実を使って体臭を消した、だから恐らく他の動物たちに襲われている可能性は低い、そしてこの目の前の高慢ちきな鳥はその所在を知らない、それだけ分かれば十分でした。 「ちょっと!待ちなさいってば!・・・もう、聞いたとおりのイヤ〜〜〜な虎ね!」 それでもゾロは止まりません。こうなったら、残り僅かなサンジの匂いをなんとか探し出し、洞へと帰るしかないと思ったのです。 「ちょーーーーーっと!ん、もう!分かったわよ!サンジくんの居場所を教えるわ!ついてらっしゃい!」 ナミは叫ぶように言うと、その艶やかな羽を大きく大きく広げ、枝を蹴り上げて空へと飛び立ちました。ゾロはしばし思考した後、諦めたような溜息をつき、橙色を目指して森を駆け抜けました。 さっきまでのグジグジとした天気が嘘のように、雲がかき消え、イーストブルーの森を疾走するゾロを、月が明るく照らし出しました。ナミが羽ばたくのを止め、スピードを緩めると、ゾロにも周りを見渡すだけの余裕が出てきました。この辺は同じ森でも、随分と様子が違います。ゾロとサンジがねぐらにしている洞の辺りではあまり見かけない苔が、大地から、無数にそびえ立つ見事な大木に向かって、見渡す限り一面にビッシリと生えていました。とても湿度が高く、吸う息まで水が入り込んでいくようで、ちょっと息が苦しいです。 「さぁ、ここよ。あのコ、本当に頑張っているのね。キツネが、こんなところまで駆けてくるんだからさ」 「そうそう、ホントだよなぁ」 一本の大木の枝から、ひょい、と紅蓮色の猿が顔を出しました。 コイツが、ルフィか。 ゾロは、思わず苦虫を潰したような顔になってしまいました。 「お前かぁ、ゾロってのは。ははっ、聞いてた通りの奴だなぁ」 ルフィは心底楽しそうですが、ゾロは心底不愉快そうです。 「なんだよ〜、そんな恐い顔すんなって!サンジは、ホラ、そこだよ、その木の中!」 ゾロが、言われた木の根元を見ると、ポッカリとあいた空洞の中に、サンジの金色が微かに見えました。 「さっきまで喚いてたけど、泣き疲れて眠っちまった。どうする?」 ゾロはしばし逡巡しました。が、すぐに穴の中に顔を突っ込むと、首をそっと咥えて、ズルリ、とサンジを引き出しました。それでも、金色のキツネは目を覚ましません。目の回りが、赤く腫れ上がっているのを見て、ゾロはどこかが軋むのを感じました。 「手間かけたな」 ゾロはそれだけ言うと、サンジをしっかりと咥え直して、背を向けて歩き出そうとしました。 「ちょっと!ちょっと待ってよ、そんだけ!?」 ナミがたまらず声を張り上げました。 「まぁ、そう焦るなって、ゾロ。なぁ〜、俺お前に話があるんだよ。ちょっと、聞いていかないか?」 話。 無視してやろうと思いましたが、一応聞いてやることにしました。ゾロが背を向けたまま立ち止まると、ルフィはやれやれ、というポーズを取ってから続けました。 「あのなぁ、話ってのはなんてことはない、お前、強いんだろう?グランドラインへ行くまで、この森の、用心棒をやらないか?」 「はぁ?」 まるで予想していなかった展開に、ゾロは思わず振り返ってそう言いました。 「あのなぁ、この森は、お前以上に迷惑な輩がいるんだよ。グランドラインからの落ち武者さ」 落ち武者、とは、グランドラインの厳しさに耐え切れず、またこの森へと帰ってくる者のことです。実際、グランドラインへ足を踏み入れたら、先へ進むか、その場でノタレ死ぬかしかないのですから、帰ってくるのも大変なことです。 「ついこの間・・・春になったばかりの頃、アイツらはこの森にやってきた。その前は、ノースブルーやらウェストブルーやらで、闊歩していたらしい。お前は必要な分の獲物しか取らないけど、アイツらは違う。まるで、殺しを楽しんでいるような狩りをするんだ。実際、噛み付いてから、どれくらい苦しみながら死なせることが出来るか、競ってやがるんだぜ。・・・聞いたことが、あるはずだ。ハイエナの、クリーク一族」 ゾロの険しい目が、ピクリ、とわずかに動きました。そういえば、ナミとの会話がこの森で2番目のことだと思い込んでいましたが、その前に、言葉を交わした・・・というか、ただのインネンをつけられたことがありました。 そのときは、問答無用で取っ組み合いになり、追い返しましたが、ちょっと手こずったのをゾロはなんとなく覚えていました。そういえば、捨て台詞に、お決まりの「俺はクリークのモンだ、覚えてろ!」と言っていたような気がします。 実は、こんな傷だらけになったのも、今日そいつらと遭って、一戦交えたからでした。いつも4〜5匹固まって、集団で襲ってくるのです。確かに、品の無い連中だとは思いました。 「・・・で?俺に、そいつらを蹴散らせ、と?」 「そう!ピッタリだろ?」 「断る」 ゾロは、ピシャリ、と言い返しました。取り付く島もありません。 「なーによ!!世話になったお礼に、とか思わないわけ!?」 ナミがヒステリックに叫ぶのを、ルフィは静かに制しました。 「ははっ、そういうだろうとは思ってたけどな・・・そういうわけで、お前が煙たがられてるのも、そいつらが遠因ってコトさ。でも、俺安心したよ。お前、イイやつそうだもんな」 またまたルフィは、とんでもないことを言うものです。でも、警戒してか、枝からは決して降りてこようとはしませんでした。 「こんなこと言っても仕方が無いけど・・・どういうつもりで、アンタがサンジくんと一緒にいるのか知らないけど・・・そのコ、一生懸命なのよ。分かってあげて」 ナミまでも、木の上からそんなことを言い出します。 「あ、俺が先導して行ってやるよ。戻れないだろ?」 ルフィの申し出に、ゾロはちょっと肩をすくめると、相変わらず規則正しい寝息を立てるサンジの首をそっと咥え、再び元来た道を戻りました。 その間、ゾロは思い出していました。サンジと初めて言葉を交わしたときのことを。 “ハイエナに襲われたんだ。” あれは、きっとクリークのことだ。 サンジの左の目を奪ったのは、あの連中の仕業だったのか。 サンジの左目は、右目のように土色ではなく、透き通った空の色だった、と聞きました。目が空色なんて、羨ましいでしょ?と、サンジは冗談めかしてよく言っていたものでした。そう言われたゾロの両目は、少しくすんだ緑色でした。 もう少し出会うのが早ければ、ゾロは、サンジの空色の瞳を見ることが出来たのでしょうか? ・・・どちらにしろ、いずれアイツらとはケリをつけなきゃならねぇな。 ゾロは、奥歯をギリっと噛むと、岩をしっかりと蹴り上げて、真夜中のイーストブルーを跳んで行きました。月明かりに浮かぶその様は、まるで、死神が怒り猛っているようにも見えました。 |
![]() |